柱前堂 2020/12/05 00:38

ボコられるチャンピオンを見守るしかできないセコンド

智佳はロープに両腕を預けて大きく息を吐く。目の前のレフェリー、その先の挑戦者を見据える目は死んでいない。

「いいよ智佳、ゆっくり呼吸を整えて! カウントギリギリまで休んで!」

ロープダウンという屈辱を味わされたチャンピオンに、こんなことしか言ってあげられない。それが悔しくて、タオルを持った手を握りしめる。

挑戦者が若いからといって侮ったつもりも、最強の挑戦者という呼び声に焦ったつもりもなかった。智佳はこれまでのタイトルマッチと同様、完璧な仕上がりだった。挑戦権を争った前回の試合から最大限成長したとしても、十分叩き潰せるコンディションだったはずだ。
けれど挑戦者は私達の予想の遥か上を行った。挑戦者のスピードもパンチ力も、私達の作戦を台無しにするほど成長していた。
加えて、その作戦すらも読まれていた。チャンピオンのプライドを捨てて、序盤から攻め立てる。意表をついたはずが、挑戦者はあっさりと智佳の猛攻をいなし、中盤になって運動量の落ちた智佳に逆襲した。まるで、自分の方が挑戦される側だとでも言うかのように。

こうして第九ラウンド、自コーナーで滅多打ちにされた智佳はこの試合三度目のダウンを取られた。

インターバルのたび、智佳に棄権を提案した。智佳の武器はどれも通じない。智佳に刻まれたダメージは回を重ねるごとに深くなり、挑戦者には疲労も油断も見えない。もはや勝ち目はなかった。それでも智佳は諦めなかった。

「ボックス!」

試合が再開されても、挑戦者は一気にダウンを奪いに来たりはしなかった。もはや王者の風格すら漂う安定した足取りで智佳へ接近する。
対する智佳は挑戦者のように果敢に攻めかかった。頭を振りながら突撃し、牽制のジャブをかいくぐって左フック。ブロックされても右、左とフックを叩きつける。いつしかデンプシーロールが挑戦者を飲み込んでいた。
智佳がギリギリまで追い込まれた数試合でだけ見せた必殺技。この嵐の前に立ったボクサーは全てキャンバスに沈んだ。
けれど……。

「ぶふえぇぇっ!」

青グローブをぶち込まれた智佳が、苦悶の叫びをこちらへ向ける。激しく動く頭の狙いにくさ、手を出して外せばフックの嵐に飲み込まれるというプレッシャーをものともせず、挑戦者は正確に智佳の顔面を打ち抜いてみせた。
智佳のデンプシーロールを挑戦者が破ったのは、この試合で二回目。偶然などではありえない。

「ぶうぅ! はぶうぅ! ぶぇ、ぐぅ、んんぶふぅっぇええっっ!!」

頭を揺すっていた勢いにパンチをぶつけられた智佳は、ファイティングポーズも取れずによろめいた。そこへ挑戦者の左右のフックが襲いかかる。
頬を打ち抜かれて頭を揺らした智佳は、とっさにストレートを出して反撃する。けれど挑戦者は知っていたかのようにそれをくぐり、智佳の懐に入ってボディを殴りつける。
呼吸を乱され動きの止まった智佳に、伸び上がるようなアッパーカットが決まった。丸まった背筋を強引に伸ばされた智佳は、天を仰いだまま2、3回痙攣すると、どうと背中から倒れ込んだ。

『ダウーン! 先のダウンから僅か13秒! チャンピオンの旺盛な闘争心が仇となったか! 伝家の宝刀デンプシーロールを破られ、チャンピオン再びダウンです! これは立てるのか!』

大きく胸を上下させるばかりだった智佳が、カウント4で動き出した。大の字に広がっていた手足を戻し、転がってうつぶせに。腰を起こすと、苛立った様子で頭を振る。背筋を伸ばす途中で顔をしかめたのは、ボディに効いている証拠。
このラウンドは残り30秒。たった30秒を、智佳があの挑戦者と同じリングに立ち続けられるとは到底思えなかった。3ダウンTKOは確実な未来だ。
このダウンでは奥の手のデンプシーロールを完全粉砕された。次のダウンで智佳は何を奪われる? 次のダウンから智佳は自力で立ち上がれるのか?

私はタオルを握り締める。あと30秒もせずに全てが終わる。けれどその前に、私が智佳を終わらせるべきじゃないだろうか。

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索