柱前堂 2021/02/06 21:39

腹パン嘔吐ギブアップ

ラウンド終了を告げるゴングが、こんなに嬉しかったことはない。
対戦相手は品定めするように私を上から下まで眺め渡して、満足げにコーナーへ向かった。自分の勝ちを確信した、舐めきった態度。
けれど私は、そんなムカつく顔をブン殴るグローブを両手に嵌めているのに、睨み返すことすらできなかった。丸まりたがる体を起こして痛むお腹を抱える姿を見せないことが、精一杯の意地。

「ふっ、ふっ、うぷ、う、はぁっ! はぁっ、ふっ、ふぅっ……」

遠ざかっていく相手の背中をぼんやり眺めながら、細い呼吸を繰り返す。身体は酸素を欲しているのに、痛めつけられた腹膜を庇いながらでは息を吐いて吸うポンプの仕事すらうまくできない。10kmをシャドーしながら駆け抜けるロードワークで鍛えた肺活量は、今や見る影もない。

内臓に刺激を与えないよう慎重に歩みを進めて、やっと自コーナーまで辿りついた。セコンドが心配そうに見ているものの、スツールに座ることすらできない。倒れ込むように一歩ずつ進むことはできても、そこから体の向きを変えて、膝を曲げて腰を落とすだなんて、今の私には難しすぎる。
スツールの前で立ち尽したまま、左右のロープに両腕を載せて体を支える。俯いてコーナーポストで顔を隠すような情けない格好が、今の私の精一杯。
とても次のラウンドに備えるボクサーには見えない格好で、痛めつけられた内臓に負担がかからないよう慎重に息をする。

安定する姿勢を見つけて呼吸を繰り返したことで、激痛で埋め尽くされていた内臓がしだいに輪郭を取り戻す。内出血がじくじくと痛む腹筋、乱れた呼吸で酷使され軋む横隔膜、押し潰された反動がいまだ荒れ狂っている胃、ぐちゃぐちゃに掻き回された腸。
その腸が、余裕を見つけて元に戻ろうと動き始めた。

「ふぅ、ふっ、はぁっ……んぷ、ぎぃっ!? いぎゃぁああ!?」

文字通り、はらわたを捻じ切られるような激痛が走る。少しでも痛みが逃げるかのようにロープをぎゅっと握りしめて、意識を埋め尽くす苦痛をなんとかやりすごそうとする。
そして、狭い腹膜内で腸が変形すれば、押される臓器も出てくる。

「んぎっ……う、あ……っ、うぷ、げぇぇぇ!! げはっ、う゛お゛お゛え゛ぇっ!!」

圧迫された胃が、内容物を減らして楽になろうと激しく収縮する。せり上がってきた胃液を押し返すことなどできず、ほとんど素通りで私は吐いた。
せり上がる嘔吐感に対して、反射的に口を閉じる。せり上がってきた吐瀉物を受け止めた私の頬が、マンガみたいに丸く膨らむ。けれど弱った私じゃお腹で爆発した圧力にはまるで勝てず、パンパンに膨らんだ頬は一瞬で決壊した。

「はぁっ、はぁっ、……っぷ、んん、ぼう゛ぇえ゛え゛っ!! げぇっ! はっ、がぁあっっ!!」

吐き出して少しは楽になった、と思えたのはほんの一瞬。出ていった分だけ空気を吸い込むと、活力の戻った体はすぐにもう一度吐こうとする。
第二波は酸素を供給した分だけ力強く、無様な声とともに吐き出された。すっかり嘔吐モードに入った体は痙攣しながら、内臓を吐き出すかのように前のめりに口を突き出す。

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ、ふーー……っ」

吐くだけ吐き切ると、また体に酸素が入ってくる。痙攣も次第に収まり、浅い呼吸を繰り返してようやく外界の刺激に意識を向ける余裕が出てくる。

えずきながら涙で霞む視界に、私の胃液でべとべとに汚れたスツールが映った。覗き込む私の顔から涙と脂汗が滴り落ちて跳ねる。こんなんじゃもう、座れない。次のラウンドまで、吐いたせいで立ったままの姿を会場中に見られる?
何やってんだろ、私……。

やがてやってきたレフェリーの、重い言葉。私はノーと言えなかった。

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