柱前堂 2022/03/21 00:08

ボディで苦しんでる間に全て終わってた

「あっ……がぁっ……」

頭が真っ白になる。声にならない空気が口から漏れる。やがてじわりと顔を出した痛みが、一瞬で意識を灼き尽くす激痛に変わる。

『ボディーッ! 追い込まれたチャンピオン、見事なボディブローで挑戦者のラッシュを止めた! これがあるからボクシングは怖い!』

実況の声が遠く聞こえる。それと同じくらい遠くで、負けられないという気持ちがある。
そうだ、立っていなきゃ。痛みでブッ飛ばされた意識から、今ボクシングで勝つために必要なものを必死で手繰り寄せる。
あとちょっと、あとちょっと殴ればチャンピオンが倒れる。その時間だけ立っていられるなら、どんな苦しみにも耐えてやる。
けれど立て立てと意識だけは集中しても、脚は底の抜けたバケツみたいに無情に崩れる。他人事みたいな視界が、みるみるキャンバスの白さで埋め尽くされる。

『ダウーン! 挑戦者、チャンピオンを追い込みましたが痛恨のカウンターボディ! 試合終盤の疲れたところにこれは苦しい!』

私は膝をつき、顔面からキャンバスに突っ込んだ。お尻だけが浮いている芋虫みたいな無様なダウン。
あとちょっとで勝てる。そう言い聞かせて騙し騙し動かしてきた内臓が、限界を越えて反乱を起こす。直撃を受けた横隔膜は細かく痙攣し、酸素を取り込むことができない。衝撃の余波を受けた胃や腸も、ずんと重く感じる。

『レフェリーここで試合を止めたー! チャンピオン、逆転TKOで防衛成功です!』

顔をキャンバスに擦りつけて、パクパクと口を開いて空気を求める。けれどポンプの動きができない肺からは空気が出ていかない。代わりに涎が口の端から垂れ流しになり、キャンバスに溜まり頬を汚す。そんなみっともない姿を晒してしまっていることにも気が回せない。

『チャンピオン、セコンドを肩車して満面の笑みです! 一方の挑戦者、まだ立てない様子、少し心配ですね』

チャンピオンを殴り倒し栄光を掴むはずだったグローブは、痛みを抑えつけるかのようにお腹の影に隠れてしまっている。ときおりお腹が痙攣して惨めな声が漏れると、怯えたようにぎゅっと体を抱きしめる。

『今チャンピオンが防衛したベルトを腰に巻きました! 打たれた顔は腫れていますが、満足げな表情です』

かは、はひゅっと唾液の絡んだ浅い呼吸を繰り返し、お腹の痛みが少し引いているのに気付く。思い切って転がり、仰向けになる。セコンドとレフェリー、リングドクターが私の顔を覗き込む。

「はい、苦しい試合でしたが練習の成果が出ました」

体を起こそうとしたものの、打たれたところがズキリと痛んで止まってしまう。セコンドに背中を支えられ、息を整えてなんとか上体を起こす。汚れた顔をセコンドに拭いてもらい、肩を借りて立ち上がる。

「ええ、非常に手強かったです。次に闘ったら苦戦すると思いますが、今度こそきっちり勝ってチャンピオンの証を立てます」

私がロープをくぐる後ろで、そんな声が聞こえた。
永遠に続くようで、過ぎてしまえば一瞬の苦しみの後、私はいつのまにか敗者になっていた。

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