フリーセンテンス 2021/02/21 18:33

私立魔鬼孕学園の淫談 呪岩石の怪(先行体験版)

 ・・・・・・私立魔鬼孕学園は、昭和の不動産王・槇原雪史郎によって、彼の生まれ故郷があった魔鬼孕村に設立された。平成元年のことである。
 魔鬼孕村は、一応は東京都に属してはいるものの、距離的には山梨県に近く、鉄道も通っていないような山奥深くに位置しており、僻地というよりは陸の孤島ともいうべき村であった。昭和の初め、この村の人口は二〇〇〇人を超えていたのだが、第二次世界大戦の勃発と、終戦後の高度経済成長に伴って、人口が継続的に流出した結果、昭和五十年代半ばには三〇〇人以下にまで減少してしまっている。東京都に属していながらも、交通の便の悪さと就業環境の格差、それに村に蔓延る忌まわしき空気が人口流出に拍車をかけたとされ、家族単位で村を棄てる者たちが相次いだのだ。故郷を棄てるに忍びなく、また他所で生きていく術を持たなかったために村に残った者(正確には残らざるを得なかった者)たちは、その大半が六十五歳以上の高齢者ばかりであったため、このままでは廃村は免れないのではないかと考えられた。
「これでこの村もお終いか・・・・・・」
という嘆きの声が、悲壮感を漂わせながらあちこちで聞かれていたというから、当時、村がいかに追い詰められた状態にあったかということを伺い知ることができるだろう。ただ、前述にもある通り、この村には、忌まわしき空気が蔓延し、よくない噂も多々囁かれていたことから、「これでいいのだ」と納得する声も少なからずあったという。
このような最中、村復興の救世主として現れたのが、当時、不動産王として業界に名を馳せていた槇原雪史郎であった。
一八歳で軍に入隊した彼は、太平洋戦争勃発と同時に南方戦線へと送られて、地獄とも称されるパプアニューギニアの地で生き延びた。終戦後、復員して東京の焼け野原を目にした彼は、直観的に復興の需要があると見抜き、強引な手法で資金を作ると、土地を買い漁り、建設会社と手を組んで多くの商用ビルやマンションを建設して莫大な財を成したのである。事業を拡大するにあたって、雪史郎は、しばしば暴力や、それに準ずる強引な手段、さらには法律に抵触するような方法を用いたため、「あいつは捕まっていないだけの犯罪者だ」と酷評されることもあったが、それでも、彼の故郷に対する想いは確かなものだったようである。
 彼は故郷である魔鬼孕村の惨状を知ると、この地に学園を設立することをぶち、私財を投じて広大な用地を確保した。しかし、レジャー施設でもなく、リゾート地でもなく、なにゆえ学園だったのか。これに関しては、雪史郎の口から直接語られることはなかったが、一説によれば、貧家の出の彼は、その貧しさゆえ、幼くして働かねばならず、学びたくても学べなかったという悲痛な想いを胸に抱え込んでいたと言われている。そのコンプレックスを晴らすため、故郷の村に学園を建設するのだということが、関係者たちの間で囁かれていた通説であった。真実か否かは定かではないが。
 かくして、槇原雪史郎の私財を投じた学園建設は着手され、プロジェクト開始から七年後の平成元年にめでたく開校の運びとなる。
開校当時、右肩上がりで成長を続けていた日本経済は、バブルが弾けると同時に空前の大不況に見舞われて、日本中の人々が不況に喘いでいる最中であったのだが、すでに事業の一線から退き、さらには保有していた全ての株式を売り払っていた槇原雪史郎は、ほぼ無傷で莫大な資産を確保していて、開校の式典に登場した時は満面の笑みを浮かべて現れたという。
「これからは学園の運営に携わり、全力を投じていきたい」
式典の席でそう宣言した槇原雪史郎は、そのまま魔鬼孕学園の理事長の地位に就き、以後、三〇年に渡ってその地位に居続けている。九十七歳という高齢でも、なお。


 ・・・・・・私立魔鬼孕学園は、その立地の不便さから、開校当初から全寮制で運営されてきた。当初は僻地ということもあって、幾つかの学科で定員割れを起こすことがあったものの、奨学金制度の充実や、進学率の高さ、さらには卒業生がプロスポーツや芸能界で活躍するようになると、次第に知名度が向上していって、入学希望者が増加していくことになる。新学科の設立や校舎の拡充、さらには各種施設の増築も図られて、いまでは全校生徒数は二〇〇〇人、勤めている教職員や専科の講師、さらには各種業務員の数を足すと、この学園内で生活している人間の数は二五〇〇人を超えている。この人数は、学園の所在がある魔鬼孕村の最盛期の人口よりも遥かに多い。だが、学園の設立によって、廃村の危機にあった魔鬼孕村が救われたかといえば、決してそうではなかった。
 確かに、学園の存在は村の地域経済に貢献した。建設の着工に伴って村を出ていった青年層が戻ってきたし、開校してからは学園関係の仕事で多くの就職口が確保された。学園が発展すると同時に納められる税金の額も増えたし、雪史郎からの寄付金で村民会館が改築されたり、図書館や民族資料館などができたりもした。だが、村の地域経済が発展するその一方で、目に見えない暗澹たる空気がより一層、瘴気を濃くしたように蔓延るようになったのである。言葉では説明がつかないような事件や事故が相次いだのだ。それも、学園の建設が始まってから、現在にいたるまで、三七年もの間、ずっとだ。
 そして今回もまた、ひとつの陰惨な事件が学園を震撼させた。
 魔鬼孕学園の敷地には「よらずの森」と呼ばれる森がある。決して深くはないのだが、昼間でも薄暗く、さらに鳥や虫の音が聞こえないため、生徒たちは不気味がって近づこうとしない。そんなこの森には「呪岩石」と呼ばれる奇怪な岩の塊があった。
明らかに人の手で加工された痕跡が確認できるこの岩は、学園の生徒たちから「古代人が呪いの儀式で使用したものだ」とまことしやかに囁かれていて「学園の七不思議」のひとつに数えられている。実際、この岩の近辺からは、銅鏡の破片や印が刻まれた獣の骨などが見つかっていることから、その指摘はあながち間違いではないと考えられている。
 問題は、この岩の近辺で、自殺する生徒が後を絶たないということだ。
 学園が開校して以来、判っているだけで、すでに八人もの生徒たちが、この岩の近辺で自殺している。自殺の理由や方法はそれぞれ異なるが、自殺した生徒たちは、決まって自分の「血」が岩にかかるような凄惨な方法で命を断つのである。そして今回も、ひとりの男子生徒が、この岩の近辺で自殺しているのが発見された。
 自ら命を断った男子生徒の名は根倉和人。普通科に在籍している生徒で、年齢は一七歳。自ら首をカッターナイフで切断しての出血死であり、「呪岩石」にもたれかかるようにして冷たくなっているところを発見された。
 遺書は見つからなかったが、調査の結果、事件性の可能性は低いと結論付けられた。なぜならば、根倉和人が自殺する前日、彼が手ひどい振られ方をしていたという目撃証言が多くの生徒から得られたためだ。
 根暗和人が告白した相手は一ノ瀬ノエルという。進学科二年に在籍する女子生徒で、日本人の父親と日系フィンランド人の母親の間に生まれたクオーターだ。日本人離れした白い肌と薄い金色の長い髪、それにアクアマリンのような大きな瞳が特徴的な美少女で、胸はそれほど大きくはないものの、声が美しく、歌唱コンクールで幾度となく優勝した経験を持ち、現役の声優として活躍してもいる。性格は勝気だが、交友関係は広く、社交的で、誰とでも分け隔てなく接することでも知られていた。去年の学園祭でおこなわれた美少女コンテストでは、得票数で他の上位六人と同率一位であったことから「学園美少女神セブン」のひとりとして数えられている人物でもある。
そんな彼女に対して、繰り返しになってしまうが、根倉和人は告白したのだ。目撃証言によると、その結果は散々なものだったそうだ。
 根暗和人から直接ラブレターを受け取った一ノ瀬ノエルは、それを一読するなり、怒りの形相で手紙を破り捨て、罵詈雑言を彼に浴びせたという。そして、鋭い眼光で彼を睨みつけると、「二度とわたしに近づかないでッ!」と吐き捨てて踵を返したそうだ。根暗和人の自殺がこの翌日に起こったことだったから、彼の自殺は失恋を苦にしたものだと推測された。
 ただ、この一件に関して、学園内では「一ノ瀬ノエルは被害者である」という認識が、共通の意見として大勢を占めている。というか、その意見がほぼ全てであって、自殺した根暗和人に関する同情の声は一切聞かれていないのが実情だ。
というのも、根倉和人は、容姿は不細工で、体格も太っており、その苗字が示す通り性格は内気で陰気であって、学業成績も運動能力も下の中程度に位置する人物で、お世辞にも一ノ瀬ノエルと釣り合う人物とはいえなかった。くわえて、物好きが破り捨てられたラブレターを好奇心で繋ぎ合わせたところ、「君の喘ぎ声や啼き声が聞きたいです」というおぞましい一文が現れたため、自殺した根暗和人に対する同情の声はゼロを通り越してマイナスにまでなってしまった。
「気持ち悪い。あんな手紙をもらったら、誰だって怒るに決まってる」
「ノエルちゃんは完全に被害者よ」
 というわけで、自殺の原因となったと目される一ノ瀬ノエルに対する追求の声はなく、かくして事件は幕が引かれることとなったわけだが、この事件は、これで終わりではなかった。
 事件からしばらく後に、一ノ瀬ノエルが寮の自室で意識を失い倒れ、そのまま昏睡状態に陥ってしまったのだ。それは根倉和人が自殺してから、実に四十九日後のことであった。

 ・・・・・・発売をお待ちいただけると幸いですm(_ _)m

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