フリーセンテンス 2021/05/15 18:21

黄昏の地下シェルター 第一部 サンクチュアリ

「・・・・・・真の勝者とは何者か。多額の資産を有している者か。社会的に高い地位に在る者か。世界的な名声を得ている者か。絶対的な権力を持っている者か。肉体的・精神的に優れている者か。悟りの境地を開いた者か。ただ単純に争いに打ち勝ったモノを指す言葉か。答えはいずれも「否」である。真の勝者とは、何者にも阻まれず、すべてにおいて自由を手にした者を指す言葉である・・・・・・」
などという戯言は、死を目前に控えた我が父が、半ば呻くように語った誇大妄想の最たる文語であろう。
私の父である東堂剛三郎は、肉体的あるいは経済的な面からすれば、真の勝者とは言えないまでも、充分に、否、それ以上に、勝ち組と称される部類に属する人間であったことは間違いない。ただ、晩年の彼は、病を患い、若かりし頃の剛健な精神力をすっかり使い果たしてしまったようで、事業において幾つかの失策をきたした挙句、精神の領域においての病人になってしまった。
 東堂家は江戸時代より続く商家で、その当時から裕福な家柄として周囲に知られていた。それが飛躍的な昇華を遂げるきっかけとなったのは第一次世界大戦時のことで、軍需物資を扱う海運業に進出したことで莫大な財を築くことに成功した。東堂家がつくった「東堂運輸」は、最終的には大型輸送船二五隻保有するほどの急成長を遂げるにいたり、創立者たる東堂雪二郎はいわゆる「成金」として脚光を浴びるようになった。
彼は金使いの荒い男であったらしく、成金逸話に登場するような札束で鯛を焼かせたり、紙幣に火を灯して足元を明るくするといった下品な真似はさすがにしなかったようであるが、それでも酒と女が大好きで、毎晩のように飲み歩いては金を湯水のごとく消費していたという。彼が四十代の若さで急死したのは、日頃の不摂生が原因であることは疑いようがなかった。
東堂雪二郎の死後、東堂運輸はその息子である東堂喜一が率いることになった。社長に就任した時、喜一はまだ二十歳という若さであったが、それでも亡父の部下たちに支えられながら事業の拡大を図り、一九二九年の世界恐慌も乗り切ることにも成功して、最終的には軍部と結託する形で南方域における輸送事業にも進出した。これが、東堂運輸に破滅をもたらすことになろうとは思いもせずに。
 当初は破竹の勢いで進撃を続けていた日本軍も、その国力にモノを言わせて巻き返しを図るアメリカ軍の猛攻に劣勢を強いられ、次第に制海権を奪われていった。それに伴って被害を受ける船舶の数も多くなり、東堂運輸が保有する輸送船も、アメリカ軍による魚雷攻撃によって次々と海の藻屑となっていった。
 被害が増えるにつれ、被る損害も多くなっていき、喜一はその莫大な額に頭を抱えた。不幸というモノは続く時は続くもので、新妻との間に生まれたふたりの子どもは、どちらも産まれて間もなく死亡し、さらには南方戦線で戦っていたふたりの弟がガダルカナルで戦死したという報せを受け取った。これにより、半ば自暴自棄に陥ってしまった喜一は、決して飲むまいと誓っていた酒を飲むようになり、しだいに精神の拮抗を崩していった。
 そのような最中だった。軍部の依頼を受け、フィリピンから極秘に運び出すことになった軍需物資の運搬を請け負ったのは。
 それは、日本軍が東南アジア各地で接収した財貨の数々だった。米ドル紙幣、金の延べ棒、銀塊、宝石類、美術品、そして日本軍が鋳造した丸福金貨数万枚を、来るべき本土決戦に備え、フィリピンから日本本国へ輸送するという極秘運搬計画だ。指揮した者が、山下奉文陸軍大将だということを知ったのは、かなり後になってからだったという。
 魔が差したとは、このことを指していうのだろう。半ば自暴自棄に陥り、さらには負け続けの日本軍に不信感を抱いて喜一は、本土に運ぶはずだった財貨を横領し、それを奄美諸島の無人島に隠匿した。そして、事の露見を防ぐため、船はアメリカ軍の攻撃を受けたと見せかけて自沈させ、その際、横領に協力した部下たちをも抹殺したのであった。
 戦後、東堂運輸は破産した。東堂喜一は軍の協力者ということで裁判を受けたが、心身の喪失が激しいという理由で投獄は免れた。周囲の人間は、東堂家の没落と、喜一の無様な姿を見て嘲笑したが、それが抱えた秘密を隠すための演技であると気づいた者は皆無であった。
 戦後、喜一には待望の子どもが生まれた。三番目に生まれた子どもで、強くたくましい男になって欲しいとの願いから「剛三郎」と名付けられたその子どもは、父親の願い通り、「勝者」となるべく、その野心と才能を発揮した。
 時代は高度経済成長期。日本列島改造計画なるものがぶちあげられ、空前の建設ラッシュが日本全土を席捲していた。これに目をつけた剛三郎は、そのブームに乗じる形で建設会社を立ち上げ、業界に参入した。起業のための軍資金は父が隠匿した財宝で、秘密裡に換金したその額は、当時の金額で五〇億円を超える莫大なものであった。
 東堂剛三郎が設立した「東堂開発」は、急激な勢いで成長を遂げ、設立からわずか一〇年足らずで大手ゼネコンと肩を並べるまでにいたった。小さな仕事は個人宅の建築から、大きな事業はレジャーランドの開発にいたるまで、土地を切り開き、土壌を醸成し、道路を通し、トンネルを刳り貫いて、開発と名がつく事業には見境なく手を上げ、触手を伸ばした。マンションを建て、別荘を建て、ゴルフ場を造り、大型商業ビルを建設し、海外にも進出して世界的に有名なホテル建設にも携わった。そして、自らが「勝者」であることを知らしめるため、「東堂開発」はついには東京証券取引所への株式上場を果たしたのであった。
「返り咲きとはこれを指していうのだ!」
とは、東堂開発の上場に際して、集まった記者や投資家たちを前に、東堂剛三郎が傲然と言い放った言葉である。それを聞いて眉をひそめる者もいたが、涙を流した者もいた。父親の喜一だ。東堂運輸の破産後、隠遁するような生活を送っていた彼は、自分の願い通り「勝者」となった息子の姿を見て、感涙で頬を濡らしたのであった。
息子の雄姿を見届けた東堂喜一は、その年の冬に息を引き取った。まだ五十代という若さであったが、戦中から飲みはじめた酒を断つことができなかった結果、胃癌と肝硬変を患い、苦悶の末の病死であった。彼の辞世の句は、自分が裏切った部下たちへの謝罪であったという。
 父の死を、剛三郎は深く悲しんだが、それでも彼は財界の雄として屹立し続け、貪欲なまでに事業拡大に熱を上げた。それに伴って政治家と癒着し、他方では暴力団とも結託して、さらには自分に批判的なジャーナリズムを封じるため、その財力にモノを言わせてメディア企業の大株主になった。それらは全て「勝者」になるための一手であって、剛三郎は勝つためであればなんでもした。それこそ犯罪まがいの行為ですら、平然と。
 政治家に賄賂を贈って便宜を図ってもらったり、中立な立場であるはずの公務員の頬を札束ではたいて事業費の見積もり書を要求したり、用地買収を拒絶する小市民に対しては、容赦なく暴力を振るったり、命や家族に危害を加えるといった脅迫行為をおこなって、時にはそれを実行に移すこともいとわなかった。目をつけた土地を手に入れるため、相手を一家離散に追いやったり、自分の競争相手に対しては、卑劣な方法を用いて自殺に追い込むこともした。東堂開発の横暴に対して被害者の会が立ち上げられたこともあったが、これはほどなくして解散している。担当した若手弁護士数人が、相次いで不審な事故死を遂げた末、その家族も行方不明になってしまったからだ。
 東堂剛三郎に対する批判的な記事を書いたとあるジャーナリストは、その記事のなかで、剛三郎のことを「日本を蝕む害虫」と表現したことで逆鱗に触れ、ジャーナリストとしての職を失っただけでなく、実家が経営していた町工場も破産に追いやられ、さらには借金を理由に新妻を暴力団によって風俗に沈められた。当人は剛三郎に対する呪詛の遺言を残して自殺したが、それを聞いた剛三郎は、風俗嬢に堕ちたジャーナリストの妻を呼びつけ、亡き夫の遺言書を読み上げながらその不甲斐なさを嘲笑い、泣き崩れる妻を飽くまで犯したのだった。妻が夫の後を追ってビルから身を投げたのは、そのすぐ後のことである。
 この一件に対し、剛三郎に対する批判が内外から噴出すると、彼は傲然と笑い飛ばして言い放った。
「弱者が死ぬのは当然のことだ。この世の摂理は弱肉強食。弱き者は淘汰されて然るべきなのだ。勝者こそ正義であって、負け犬は咆えることすら許されぬ」
そう言って剛三郎は豪快に笑ったが、その直後、彼は突然吐血してその場に倒れてしまった。日頃の不摂生と不健康な生活が祟って、胃に腫瘍ができていたのである。
 すぐに緊急手術がおこなわれた。彼に恨みを抱く者は失敗を願ったが、その祈願が叶うことはなく、剛三郎の手術は成功し、胃の半分を切除する羽目になったものの、彼は一命をとりとめた。ただ、この時を境にして、剛三郎は急激に病んでいった。肉体ではなく精神面で。
 病を境にして、あれだけ旺盛だった事業意欲は、まるで風船が萎むように衰えていき、それが原因ゆえか、事業で判断ミスを下すことが多くなった。そのため、健康上の都合を理由に五十代半ばで社長職を退き、その席を部下に譲った後、自らは会長職に退いて、隠遁するように表舞台から姿を消した。
 病による変化はそれだけではなかった。彼は四十代半ばまで独身を貫いて独り身の人生を謳歌していたが、四七歳の時、焦るように相手を見つけ、ほどなくして結婚にいたった。
「私が子どもを持つことはないだろう。子どもなど邪魔なだけだ」
そう豪語していたにも関わらず、滑稽の極みというべきか、結婚した後は不妊治療にまで手を出した。かくして私がこの世に生まれるにいたった訳だが、子どもに「勝也」という名前をつけるあたりに、父の勝者に対する執念を感じられる。ただ、私の記憶にある父の姿は、とても勝者とは言い難いものであったが。
私の記憶にある父の姿は、後々聞かされることになる「悪業」からは想像もつかないような弱々しいもので、父はいつも小さく、卑屈で、まるで何かに怯える小動物のように、常にびくびくしながら過ごしていたという印象しかない。日中は書斎に籠ることが多く、夜、外に出る時も、広い庭を不安気に歩くことしかしなかった。悪夢は毎晩のように見ていたようで、うなされたり、泣いたり、叫んだり、何事かを喚いたりしながら、時には寝汗でびっしょりと濡れた状態で飛び上がるように起きることもしばしばあった。その姿からは「勝者」として振る舞ってきたかつての威厳はどこにもなく、自らが忌み嫌い蔑んできた「敗者」の姿を彷彿とさせるものがあった。
 父がこのようにいたった理由は明白である。患った病を機に、彼は恐くなってしまったのだ。死が、ではない。自分がこれまで虐げてきた者たちからの報復が、だ。
 父の悪業の数々は周知の事実である。これまで父は、何千人という人たちを直接、その何倍もの人たちを間接的に不幸に追いやって、そのなかには物理的にあの世へと追放した者も少なくなかった。自分に恨みや憎しみを抱いている者が数多く存在していることを承知していた父は、彼らからの報復や復讐に怯え、獰猛な獣から逃げ隠れる小動物のように恐怖に震えていたのである。事実、政財界やジャーナリズムの一部には、父のこれまでの悪業を追求しようとする動きがあったのも事実だった。病を境に弱気に支配されるようになっていた父には、もはやこれに抗う気力は残されていなかった。
 時代はバブル崩壊後の大不況時代である。順調に業績を伸ばし、拡大を続けていた東堂開発も、その煽りを受け、経営難に陥り、苦境に立たされていた。これでもし、東堂開発が倒産するような目に遭えば、追求の手が強くなるのは間違いないだろう。これまで権力と財力にモノを言わせて踏みにじってきた司法の触手が、貪欲に獲物を貪ろうとするかのように、ゆっくりと、しかし確実に、自分の身に迫っていることを否応にも感じざるを得ない状況にあった。それはすなわち、自分が忌み嫌っていた「敗者」に転落することを意味していた。
 弱った精神では、立ち向かうことは愚か、抗うことすら難しい。残された手段は逃走しかなく、かくして父は常軌を逸した行動にうってでる。自分の「逃げ場」を、否、自分が「勝者」でいられる場所を確保しようとしたのだ。
 ただし、それは海外などではなく、地下だった。父は、誰の手も及ばない、自分だけが勝者で在り続けれる場所として、自分だけの「聖域」を創るために、地下にシェルターを造ることを決めたのだった。
 後に「サンクチュアリ」と名付けられることになるこの地下シェルターは、東堂開発の会長として振るえる限りの権力を行使して造られたものである。
計上された計画書に記されていた事業名目は「地下ホテル」。当時、世間では、ノストラダムスの大予言や、二〇〇〇年問題に端を発する核戦争の危機がまことしやかに囁かれており、無節操な終末論が蔓延っていて、それに乗じる形での事業計画が表向きの理由とされた。もちろん、父は造った地下シェルターを実際にホテルとして稼働させ、客を迎え入れるつもりはなく、あくまでも自分専用のシェルターとして活用するつもりだった。
 この事業のために、三五〇億円の予算が計上されたが、最終的にはそれよりも一〇〇億円多い四五〇億円が総工費として費やされた。工期も五年とされたが、それよりも長い七年かかった。しかし、それゆえに、完成した地下シェルターは見事のひと言に尽きた。
 造られた地下シェルターは、地上二階、地下七層から成っており、地上も地下も頑丈な鉄筋コンクリートで造られていて、至近距離で広島型の原子爆弾が爆発してもびくともしない造りとなっていた。地下シェルターの入り口は分厚い頑丈な鋼鉄製の扉が二重になっており、万が一、強引な方法で突破された場合には、様々なガスが噴出する仕組みとなっていた。
 地下一層から二層にかけては公共スペースとなっており、その中にはシェルター内の設備を統括する管理制御室、ラウンジ、一〇〇人が一同に会せる食堂、各種機器を取り揃えたトレーニングジム、二五メートル幅の大型プール、大浴場、ダーツやビリヤード等を備えた遊戯室、五〇人が一度に観賞できるシアタールーム、一〇万冊の蔵書が納められた図書館、さらには様々な医療設備を兼ね備えた小型の病院までも造られており、ここでは外科手術や内視鏡手術、さらには放射線治療も受けられるようになっていた。これはもちろん、父が健康上の不安を抱えていたからであって、この部分だけで三〇億円もの経費が費やされていた。
 地下三層から五層までは居住スペースとなっていて、第三層は単身者用の個室が、第四層には家族者用の居室が、それぞれ用途別に造られている。室内にはバス、トイレ、キッチンなどが備え付けられていて、それはさながら分譲マンションかアパートのような構造になっているが、壁には窓が無いため、閉塞感を紛らわせるために、故意にカーテンが敷かれていたり、絵画がかけられたりしている。この居住区の特徴は、故意に幅や天井が広く設計されて圧迫感やストレスを感じさせない造りとなっていることだろう。そのため、計算上は一千人が収容できるだけのスペースがあるにも関わらず、収容定員はわずか二〇〇人とされた。
この居住スペースに移住できる者は、父に服従を誓い、許可を受けた者だけだとされた。もちろん、有事以外でこの場所を使うことはまず無いであろうから、居住の許可を受けたからと言って狂喜する者がどれだけ居たかは不明だが、それでも、頑丈な地下シェルターへの移住権獲得は、それなりに選民意識をくすぶるものがあったから、狂喜とまではいかないまでも、喜ぶ者はけっこう居たかもしれない。
ただし、権利には往々にして義務が生じるもので、移住権と共に課せられる義務とは、父に対する絶対服従であった。では、もし、その義務を果たさなかった場合はどうなるか。
地下シェルターの第五層はまるまる父占有のVIPエリアとなっているのだが、この空間には隠し部屋として造られた牢獄と○問部屋があった。これは父が自分の権力と威厳を示すために設けたモノで、自分に対する反逆者や裏切り者に対しては、ここで懲罰を加え、処分するつもりだったようだ。身の毛がよだつ思考とは、これをおいて他にあるまい。
 そして、第六層と第七層には、この地下シェルターを維持するための各種設備と備蓄用の保管庫があり、さらには水耕栽培用のプラントや、淡水魚を飼育するための大型水槽なども備えられていた。ここに蓄えられている食料、燃料、飼料、医薬品は、二〇〇人が三年間、外部と接触しなくても賄えるだけの量があり、飲料水や生活用水は地下八〇〇メートルから汲み上げられるようにもなっていた。もちろん、浄水設備も完備済みだ。
この「サンクチュアリ」は、人口二〇万人ほどの中規模都市の一角に建設されたが、それには明白な理由があって、洪水などの自然災害を避けるためという理由の他に、もうひとつ、自分に司法の手が及んだ場合に備え、周囲に何らかの「被害」を与えるという危惧感を相手にもたらす意図があった。浅間山荘事件にせよ、オウム真理教の事件にせよ、人里離れた場所で事件が発生した場合、警察は民間に及ぶ被害が少ないと判断すれば容易に強引な手段をとってくる。そのため、あえて人口が多い都市部に地下シェルターを造ることによって、目に見えぬ人質を作ろうとしたのだ。
 この地下シェルターは、父にとってはまさに不可侵領域であって、その名が示す通り「聖域」であったに違いない。自分が「勝者」であるための空間。何モノにも束縛されず、自由を謳歌できる場所。たとえそれが「箱庭」であったとしても、この地下シェルターを造ることによって、父は自分に迫っている復讐や司法の魔の手から逃れることができると確信して、辛うじて精神の均衡を保っていたようだった。
精神的な病に端を発する妄想的狂気も、いっそここまでくれば見事という他ない。ただし、妄想というものは、実現する可能性が限りなくゼロに等しい事象を指す言葉であって、父の身に復讐や司法の魔の手が及ぶことはついになかった。
 地下シェルターが完成した翌年、父はこの世を去った。かつて患った癌が原因ではなかった。精神的な病が心身を激しく消耗させてその命を奪ったのである。
 死の間際、父は薄っすらと目を見開いて、静かに辞世の句となる言葉を発した。
「・・・・・・真の勝者とは何者か。多額の資産を有している者か。社会的に高い地位に在る者か。世界的な名声を得ている者か。絶対的な権力を持っている者か。肉体的・精神的に優れている者か。悟りの境地を開いた者か。ただ単純に争いに打ち勝ったモノを指す言葉か。答えはいずれも「否」である。真の勝者とは、何者にも阻まれず、すべてにおいて自由を手にした者を指す言葉である・・・・・・」
これほど滑稽な文言が他にあるであろうか。父は、死ぬ間際まで、自分が「勝者」であると錯覚していたようであるが、それはとんでもない勘違いだ。誰からみても、息子である私の目から見ても、父は自らの精神が創り上げた牢獄に捕らわれた哀れな囚人であるに過ぎず、どこからどう見ても「敗者」に他ならなかった。
 父は死んだ。そして、私は父の財産を相続した。最盛期からすれば随分と減少してはいたものの、それでも父の財産は莫大なモノだった。
 田園調布の邸宅、軽井沢の別荘、複数のマンション、複数の商業用ビル、土地、株式、債券、信託預金、美術品や貴金属、多額の現金、そして「サンクチュアリ」という名の地下シェルター。
地下シェルターがいつの間にか父個人の所有物となっていた理由は、父が自分の権力を使って、開発元である東堂開発から負債削減という名目で手放させたいたからであった。
この事実を知った時、私は、
「余計なことをしてくれたッ!」
と、本気で憤慨したものだ。
 国に奪われる相続税が高いのは、昔も今も変わらない。私が父から継承した財産は、額が莫大だったため、相続税を支払うために別荘や土地、美術品や貴金属類等、自分にとって不必要と思えるモノは片っ端から売り払った。そのなかでも地下シェルターは真っ先に手放したい代物だったのだが、これを保有し続けることが財産継承の条件であったため、私は泣く泣くこの「金食い虫」を持ち続けるしかなかったのだった。
 不動産というものは、そこに在るというだけで金を食う。維持費、管理費、固定資産税、ローンがあれば金利の支払いなどなど。とにかく、所有しているだけで出費がかさんでいくものだ。それでも、マンションや商業用ビルであれば、家賃という形で収入が発生するのだが、地下シェルターはそういった所得を一切生まない。ただひたすら金を食うばかりだ。しかも、父が残した地下シェルターは、規模が規模だけに、なにもしなくても維持・管理費だけで、年間十数億円が消費されてゆくという代物だった。まったく、とんでもないモノを残してくれたものだ。
 とはいえ、この地下シェルターに対する父の思い入れを考えると、さすがに無下に扱うことはできなかった。
「さて、どうしたものか」
考えた末、私はこの地下シェルターを活用することにした。会社を興し、その拠点とすることにしたのである。
ものは考えようだ。建築部分が地下にあるというだけで、造りは他の建築ビルと大差ない。むしろ、より頑丈に、堅固に、さらには利便性を追求する造りとなっている分、他のビル建築と比べて効能が優れていると思われた。問題はどのような業態の会社を興すかであったが、これに関してはすでに考えがまとまっていた。
 相続した父の財産は、かなりの額を国に税金としてとられてしまったが、それでも私の手元には数百億円もの資産が残された。これだけあればなにをせずとも人生を謳歌することが可能であろうが、私の身体に流れる商家としての血脈が、無為に人生を消費することを許さなかった。そこで私は、相続した父の財産を有意義に活用するために、投資会社を設立することにしたのである。
 大学では経営学を学ぶかたわら、金融工学や投資理論についても勉強し、身に着けた知識を活用するため、在学中に株式投資や為替取引に手を出してそれなりに利益を上げていた。未熟ではあるが非凡だという自負もあった。それに、もともと大学を卒業した後は、外国資本の投資銀行か証券会社に務めるつもりだったのだ。
「これもなにかの天啓で、いい機会かもしれない」
そう思うことにして、自分の会社を持つにいたったわけだ。社名を「サンクチュアリ・キャピタル」としたのは、亡父へのせめてもの手向けであった。
 地下シェルターを投資会社の拠点とするにあたって、私はシェルターに幾つかの改良を施した。地下二層部分にあった図書館と食堂の一部を撤去して、そこにディーリングルームを設置した。投資会社としての中核を成す部分であるだけに、改装と各種設備の追加にはかなりの出費を必要としたが、少なくとも生活費と地下シェルターの維持費だけは稼ぎだすつもりであったから、出費を惜しむつもりはなかった。
 図書館に収納されていた数万冊の蔵書は地下五層に移動させた。この地下シェルター内でもっとも不要と思われる場所である○問部屋に。そこに設置されていた各種器具は、蔵書と違って無意味な代物であったから、売却することに躊躇いはなかった。予想していたよりも遥かに高額で売却できたことが、唯一の嬉しい誤算ではあったが。
 投資会社設立に伴って、住居も地下五層に移すことにした。この地下シェルターでは、日光以外のほぼ全てを補うことができるため、その方がなにかと都合がいいからだ。精神的な閉塞感を克服し、その意思さえあれば、生涯、この地下シェルターで暮らすこともできるかもしれなかった。むろん、外の世界に何事もなければ、であるが。
 会社を設立してから最初の三年間は、自分の実績を積むため、シェルターを維持・管理するための最低限の人員以外は人を雇わなかった。業績が好調に推移し、利益が右肩上がりで上昇するなかで、事業拡大を選択し、徐々に雇う人の数を増やしていった。仲間の数は一〇人、二〇人、三〇人と増えていき、設立から一〇年が経過する頃には、社員の数は五〇人を超えるにいたった。それに伴って、シェルターを維持するための人員も、三〇人にまで増加した。その大半が、二十代から三十代の若者で、男女の比率はほぼ均等だった。
 社員のなかには既婚者や所帯持ちもいたが、大半は独身だった。私は彼らのため、希望する者には地下三層と四層の居住スペースへの移住を許可することにした。希望者の数は、予想いていたよりも遥かに多かった。彼らにとっては地下空間における逼塞感よりも、通勤時間の短縮や、家賃・食費・光熱費の節約といったことの方が大事のようで、移住の許可を受けると大喜びで地下に越してきた。おかげで地下シェルター内はかなりの賑わいになった。嬉しいことに。
 会社の拠点を地下に設けてもっともよかったと思われた時は、やはり二〇二〇年に猛威を振るった新型コロナウイルスによる世界的なパンデミックの際だろう。東京を中心とした関東全域で新型コロナウイルスが感染爆発を引き起こしていた時、地下に籠ることでその脅威から逃れて、業務をつつがなく遂行することができたからだ。おかげでその年、他の金融機関が赤字や大幅な減益に頭を抱えるなか、サンクチュアリ・キャピタルは最高益を叩き出すことができた。
 新型コロナウイルスの猛威は、紆余曲折を経ながら収まってゆき、最終的には一億人を超える感染者と、数百万人の死者を出した末、どうにか終息した。
 ウイルスによるパンデミックの発生は、統計的にみて、一〇〇年に一度の周期で起きているとされている。そのことを鑑みれば、少なくとも今世紀中には、もう二度と、大規模なパンデミックは発生しないと考えることができる。少なくとも、地球上における摂理としては。
 ただ、事実は小説より奇なりというわけで、新たなる脅威が宇宙から来ようとは、誰も想像すらしていなかったが・・・・・・。


・・・・・面白かったら、是非とも、当サークルの作品のご購入をお願いいたします。モチベーションのアップに繋がりますので。

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