フリーセンテンス 2021/09/21 19:51

黄昏の地下シェルター 第三部 箱庭の平穏

こんばんわ、フリーセンテンスです。
すでに忘れられていると思いますが、こそこそと書いていた「まとも」な小説の第三部です。地下シェルターに籠ることを妄想するのが好きな方(いるのかな?)におすすめです。
無料ですので、もしよろしければ読んでいただけると幸いです。
それではどうぞ!


現在、サンクチュアリ・キャピタルが拠点を置く地下シェルターには、男女合わせて一二三人が滞在している。その内訳は、ディーリング部五一名、地下シェルターの維持・管理を行う総務部三三名、シェルター内の警備・保全を担う警備部一五名、滞在者の健康管理を担当する医療従事者六名、そして一〇歳未満の子どもを含む社員の家族一八名だ。家族の人数が少ないのは独身者が多いからでもあるが、地下シェルター内に家族を移住させず「単身赴任」という形で地下に住んでいる者も多いからである。
 幹部会を開催した翌日、勝也は当直や宿直を含めた社員を一同に集め、緊急の会議を開催した。今後もしばらくの間、この地下潜伏生活を続けることを伝えるためである。
「むろん、この決定は強○ではない。君たちはいつでも地上に出て行く権利を有しており、それはいつでも行使できる。ただしその場合、再度地下に戻ってくることは難しいと承知しておいてくれ。地下シェルターという密閉された空間に、ウイルスが一個でも持ち込まれれば、感染爆発は避けられない。地下に残る者たちの安全を確保するための措置でもあるので、この点に関しては異論を認めないことを理解しておいてくれ。ああ、それと、地下滞在中に支給されている特別手当も削られることもね」
最後の付け加えは勝也なりのユーモアを交えたつもりだったのだが、集まった者たちは真剣で、笑う者は皆無だった。
 言われずとも、みんな判っているのだ。感染が終息傾向にあると伝えられているとはいえ、市中ではいまだ感染者が確認されており、地上では混乱が続いている。それはまだ危機が去っていないことを証明して止まず、そもそも、大本営発表のような、政府の「終息傾向」という言葉自体を信じていない者も少なくなかった。それに、たとえいま地上に戻ったとしても、結局は自粛生活を送らなければならないのだし、そうであれば、多少の閉塞感を伴うとはいえ、ジムに通ったり、シアターで映画の観賞ができたり、仲間同士集まって語ることができる現状の方が随分マシというものだ。それに、ほとんどの者が地下に移住しているため、地上に住居が無い者が多いのも実情だった。
 ゆえに、潜伏継続に対する反対意見を表明する者はいなかった。ただし、今後の潜伏生活に関して、漠然とした不安や疑問を口にする者は多かった。
「今後、地下生活を続けるにあたって、備蓄してある物資や食料はどのくらいの期間持つのですか?」
「電気や水道は、なるべく節約した方がいいのでしょうか?」
「もし病気になったり、何らかの原因で倒れたりしてしまったら、その時はどうするのでしょうか?」
「漫画みたいな話ですけど、シェルター内で犯罪が起こった時とかは、どう対処するんですか?」
それらの質問や疑問には、勝也ではなく、各部署の受け持つ担当幹部たちが回答を担った。
 まず最初に口を開いたのは、地下シェルターの維持・管理を担う総務部の毛利成元だった。年齢は六七歳で、地下シェルター内の最年長者である。元々は勝也の父親である東堂剛三郎に仕えていた人物で、彼からの信頼は厚く、剛三郎が生きていた頃からこの地下シェルターの維持・管理を任されてきた実績と経験を持つ。ゆえに、地下シェルターに関しては構造から機能設備にいたるまで細部に渡って把握しており、その点に関しては所有者である勝也も彼には及ばないのであった。
「まず、食料や物資についてですが、今後の消費如何にもよりますが、現在の消費状況で生活を続けたとしても、最低でもあと二年と六か月は充分な量を供給できると考えています」
重みを伴うものの、柔らかな物腰と口調で、成元はさらに詳細に説明を続けた。
「施設内の大型冷凍倉庫には肉類や魚介類、冷蔵倉庫には野菜や果物が充分な量備蓄されておりますし、それを消費したとしても、缶詰やレトルト食品、インスタント食品等も大量に保管されています。最終的には三食パスタなんてこともあるかもしれませんが、当分の間はその心配もないでしょう。水耕プラントや大型水槽も稼働中ですので、頻度や種類は限られますが、新鮮な野菜や魚介類を使った料理も提供できると考えております。ただし、菓子類や酒類などの嗜好品に関してはそれほどの量が無いため、近いうちに売店での購入制限を設けるつもりではありますが、決して買えなくなるということではないので、慌てて買い出しに走らないようにしてください。地上のようにね」
 それを聞いて何人かが笑った。マーズウイルスの蔓延に伴って、地上で買い占め騒動や転売、商品価格の不当な吊り上げ騒動が起こっていることは周知の事実である。成元はそれを揶揄してみせたのだった。
「それと、電気と水道ですが、これも現在のところは節約する必要はありません。外部とのライフラインは維持されており、地上で何か問題が起こらない限りは供給が続きますので心配する必要はないでしょう。ただし、もし、感染拡大に伴って、水や電気の供給が滞った場合には、地下の自家発電設備に頼ることになります。燃料の備蓄が充分にあるとはいえ、場合によってはみなさまに節約生活を強いることになりますので、その点に関しては承知をしておいてください」
そこまで言って、成元がマイクを置いた。
そしてそれを、医師の真田慎吾が受け取った。彼は元々、とある大学病院に勤務していたのだが、利益追求主義に走る病院の上層部を手ひどく非難した結果、半ば追放させられるようにして病院を辞めさせられた過去を持つ。努めていた大学病院は医学界でかなりの権威を持っており、そこに逆らった慎吾は僻地に向かう以外に道は残されていなかったのだが、そんな時に企業ドクターを探していた友人の勝也に声をかけられ、サンクチュアリ・キャピタルに来ることになったのであった。支払われる報酬は破格で、住居も用意されるとのことで喜んだのだが、まさか地下で生活することになろうとは、さすがにその時は思ってもいなかったが。
「医療品に関する備蓄も、いまのところ問題ないと断言できます。ただし、無節操な乱用的使用を避けるため、ぼくが診断した後、必要と判断した場合に限って処方します。大抵の場合、むやみやたらに薬に頼るよりも、安静にして回復を待った方が有効ですので、みなさんもこれを機に薬に頼る生活から脱却されたらいいのではないでしょうか」
そう、前置きをしたうえで。
「ただし、なんらかの症状がある場合は、すぐにぼくの元へ相談にきてください。長引く地下生活が免疫力を弱めることは明白ですので、たとえ微熱でも、安易に風邪だと判断せず、指示を仰いでから対応するようにしてください。それと、もし、万が一、大病を患った場合ですが、地上の医療機能が維持されている場合は、大事を考えて救急病院への搬送をおこないます。また、仮にですが、地上の医療機能が崩壊していた場合は、地下シェルター内の医療設備で対応します。幸いなことにここの医療設備は充実していますので、大抵の手術には対応できるでしょう。ただし、疾患部位が脳に在る場合は、ぼくの専門外の分野であるため、最善は尽くしますが、最悪の覚悟はしておいてくださいね」
「・・・・・・」
最後のひと言を受け、集まった職員たちは鎮痛な面持ちで沈黙し、ごくりと生唾を飲み込んだ。そして誰もが病気に罹るまいと心に誓うのだった。
 言うべきことを言って、慎吾がマイクを横に動かした。
 それを警備部長の武田幸春が受け取った。年齢は幹部のなかで最も若い三二歳だが、巌のような面持ちと、屈強な体格によって、実年齢よりも年長に見える。体育大学の出身で、柔道の国体で準優勝した経験を持つ。幹部の中では唯一の既婚者で、同時に二児の父親でもあった。地下シェルターには単身赴任という形で居住しており、妻子は現在、妻の実家がある長野県大鹿村に疎開中だ。
「まず、前提条件として、みなさんにはシェルター内では節度ある行動をとってほしいと考えておりますし、とってくれると思っています。そのうえで、もし、シェルター内でなんらかの犯罪行為が確認された場合には、厳正な調査を実施したうえで、社長である東堂勝也氏に処分の判断を仰ぐことになるでしょう。ただし、自殺や傷害、殺人などの事件が起こった場合は、すみやかに外部の警察に通報したうえでその捜査に協力することになるでしょう。それは外部との接触を意味しますので、新型ウイルスに感染したくないのであれば、みなさんには是非とも謹んで行動してほしいと思っております。以上です」
そう言って、彼は勝也にマイクを戻した。
 マイクを受け取った勝也は、幹部の中で唯一発言の機会がなかった只野に水を向けたが、彼からは特に発言することはないとのことだったため、会議を閉めるための言葉を述べることにした。
「現在、火星からやってきた新型ウイルスによって、日本のみならず全世界が混乱の只中にある。この危機は、数年前の新型コロナウイルスの時よりも遥かに厳しいモノになると思われる。だが、新型コロナウイルスの時のように、あるいは一〇〇年前のスペイン風邪の時のように、人類は必ずやこの危機を乗り越えられるはずだと私は思っている。その時こそ、我々が地上へ戻る時でもあるのだ。そしてその時、勝者であれるよう、各自業務に邁進してくれ。世界中の株式市場が開いている限り、我々に休んでいる暇はない。地上の状況があるていど落ち着かない限り、今後も売れば勝てる状況もいましばらく続くだろう。ゆえに、この機会に稼げるだけ稼いでくれ。もちろん、冬のボーナスを心待ちにしながらな。話は以上だ。では、そろそろ東京市場が開く時間なので、各自業務に戻ってくれ。解散」
「はいっ!」
かくして緊急会議は終了し、社員たちはそれぞれの持ち場に戻って地下ではまたいつもの日常がはじまった。
 只野は他の社員たちと共にディーリングルームへと向かい、成元は地下七層の整備点検のためエレベーターを使って降りていった。宿直明けの幸春は、また今夜の宿直に備えて仮眠をとるため自室へと戻った。そして、彼らを見送る形で、会議室には勝也と慎吾のふたりだけが残された。
「・・・・・・で、今後、地上の状況はどうなると思う?」
他の者たちが去り、しばしの沈黙が流れた後、先に口を開いたのは勝也だった。
 それに応じる形で、慎吾が深く息を吐いた後、口を開いた。
「・・・・・・日本を含めた北半球では、すでにウイルスの流行は終息の兆しを見せ始めていると言われているが、それがまやかしであることは間違いない。新型コロナウイルスの時も、スペイン風邪の時も、第一波の後には第二波、第三波とやってきた。しかも、より酷くなってな。おそらくだが、今回も終息するより前に第二波がやってくるだろう。ボストンとサンフランシスコで確認された市中発病者が、この危機がまだ去っていないことを証明していると言っていいだろうな」
「やはり、か・・・・・・」
慎吾が述べた意見が、自分が抱いていた考えと一致したため、勝也は深いため息を吐いた。危機の継続は、サンクチュアリ・キャピタルに莫大な利益をもたらすに違いないのだが、それでも限度というものがある。いつまでも地下生活を続けるわけにはいかないし、危機が拡大した挙句、世界が崩壊したとあっては元も子もないのだから。勝也としてはなるべく早い段階で終息の道筋が見えてほしいところであった。
「新型コロナウイルスの時は完全に終息するまで三年かかった。やはり今回も、事態が終息するまでそれくらい長引くのだろうか」
勝也のその発言は、ほとんど独白に近い独り言のようなものであったのだが、それに反応した慎吾の口調は、重々しく、そして沈痛だった。
「・・・・・・それなら、まだ不幸中の幸いというものだ」
「と、いうと?」
「問題は、感染の速度が人間の想定とコントロールできない速度で拡大した場合だ。ワクチンも、特効薬も、抗ウイルス剤の開発もままならないまま新型ウイルスの感染が拡大したら、経済が死に、社会が機能不全に陥るどころか―――」
「人類が滅亡する、か・・・・・・」
「残念ながら、その予兆はすでにある。昨日、中国の知人医師から連絡があった。まだ報道されていないが、重慶で大規模な感染が確認されたらしい。それも市中でだ」
「・・・・・・」
最悪だ、と勝也は思った。
「中国政府はこれを揉み消そうとしているらしく、人民解放軍の防疫部隊を展開させて感染者や濃厚接触者を次々と「処分」しているそうだが、すでにかなりの数の隔離対象者が市外に脱出してしまったそうで、もう収拾がつかなくなってしまっているらしい。これが本当の話なら、考えただけで身の毛がよだつ」
「・・・・・・だが、これは中国だけの問題じゃない。そうだろう、慎吾?」
「その通りだ。アメリカでも新たな市中発病者が確認されたように、気づかないだけで、水面下ではかなりの数の感染者がいるかもしれず、感染の流行も終息するどころかなおも拡大中なのかもしれない。そして、それが表面化する頃には、もう・・・・・・」
「手遅れ、か・・・・・・」
「ただの推測に過ぎないけど、決してありえない話じゃない。それに、北半球では終息傾向にあるかもしれないが、南半球ではいまだ感染の拡大が収まっていないんだ。まだ、感染者全員が発病すると決まったわけじゃないが、致死率もさることながら、発病率も高いとなれば、君がさっき言ったことは、俄然、真実味を帯びてくることになるね・・・・・・」
「・・・・・・」
ふたりの間に、重い沈黙が流れた。
 勝也は、先ほど社員たちに対し述べた言葉を、口にしたこと自体を後悔するように思わずにいられなかった・・・・・・。

          *

 ・・・・・・アメリカで新たな発病者が確認されたことが、新たなターニングポイントになったと言っていいだろう。この日を境にしてアメリカでは各地で続々と市中発病者が確認されるようになっていき、感染拡大は終息に向かっているどころか更なる拡大を続けているという事実をアメリカのみならず全世界に知らしめる結果になったからだ。
 それは日本も同様だった。日本でも感染者は毎日のように確認されていたが、ここ最近は一桁台で推移していた。政府はこれをもって「感染は終息傾向にある」と豪語していたわけだが、感染者の数が少ないのは意図的にウイルス検査の数を絞っていただけという事実が、内部告発によって白日に晒されたのである。この内部告発によって日本中に激震が走ったのはいうまでもない。
当然のことながら、政府は与野党のみならず、マスコミや国民からも激しいバッシングを受けることとなり、首相が直接謝罪し、厚生労働大臣が辞任するという事態にまで発展したのだが、それで幕引きとなるわけがなかった。
失態が、恐ろしいほどの狂暴性を伴って、さらには牙を剥いて襲いかかってきたからである。この騒動を契機として各地で実施されるウイルス検査数を増やした結果、日本全国で膨大な数の市中感染者がいることが明らかになったのだ。
 神奈川県では大学の寮での集団感染が発覚し、最終的に大学関係者二四六人がマーズウイルスに感染していることが判明した。埼玉県では中止が求められていたコンサート会場を起点とする大量集団感染が発覚して大問題になった。静岡県では児童養護施設で二八人が、石川県では小学校で六七人の集団感染が、新潟県では特別養護老人ホームで八九人の集団感染が確認されてパニックが起こった。千葉県ではひとり暮らしをしていた七十代の男性が、アパートで爆発して死亡しているのが発見され、後日、アパートの住人の九割がマーズウイルスに感染していることが判明した。福岡や札幌、大阪や神戸の繁華街では、ホストクラブやキャバクラ店での感染が確認され、岐阜では性風俗店での連鎖的集団感染が判明した。当然のことながら、東京でも感染の有無を調べれば調べるほど増加していき、アメリカでの市中発病者の確認からわずか二週間ほどで、東京での感染者数は一万人を超えたのだった。この時点で、全国で確認された感染者の数は二万人を超えており、その数は日を追うごとに増加していく一方だった。
 これによって引き起こされた問題は、感染者の隔離施設の確保だった。新型コロナウイルスの時の教訓から、政府はあらかじめ、かなり余裕をもって隔離施設を確保してはいたのだが、さすがに万を超える隔離病床は確保できていなかった。しかも今回、蔓延しているウイルスは、新型コロナウイルスよりも遥かに感染力が強く、致死率も推定で一〇〇パーセントという凶悪極まりないウイルスであったため、感染対策や警備がしっかりしている施設でないと隔離は不可能ということにいたり、前回のようにホテルや宿泊施設を借りてそこに収容する、というわけにはいかなかった。
その結果、感染が確認されても隔離先が決まらないため感染者は自宅待機という事態が続き、これが新たなる悲劇の幕開けとなってしまった。
 感染者の自宅待機は、結局のところ、感染者本人の自制心に頼るところが大きい。それは個人差があって、大人しく自宅から一歩も外に出ない者も居れば、それとは正反対の行動を取る者も少なくなかった。つまり、感染が判った途端、積極的に外出する者が続出したのである。
 マーズウイルスに感染していても、発病しない限り症状はない。健常者と同じといっていいだろう。そのため、感染を知って自暴自棄に陥った者のなかには、他人にも自分と同じ不幸を味合わせてやろうと、あえてウイルスを拡散するような行動を取る者が多数出現したのだった。
当然のことながら、これに大多数の日本国民は怒り狂った。
「感染すると知っていながら外出するなんてッ! しかもウイルスを拡散するような行動をとるとは何事だ! そんなのテロリストと同じじゃないかッ!」
「感染したのは自業自得だろうが。こんな最中に外出したりするから感染するんだ! 感染者は馬鹿じゃないのかッ!」
「感染者は悪意を持って感染を広げようとしている! そんなことを絶対に許してはならない!」
「日本も外国と同じようにもっと強硬な手段を講じるべきなんだ! 感染が確認された時点で殺してしまえ! 死刑だ死刑!」
「感染者を許すな! 感染者の家族も許すな!」
などという声が、感染者の増加と共に、日本全国で日増しに強くなっていった。
また、現職の国会議員の中には、
「隔離施設が無いのであれば良い方法がある。感染者は全員、無人島に送り込み、そこに隔離するんだ!」
という意見を公然と口にする者まで現れはじめた。
 この一見無慈悲だが、もっとも有効と思われる対策案は、実際に政府で真剣に検討されたのだが、憲法と人権という問題が立ちはだかった結果、実現にはいたらなかった。新型コロナウイルスを契機として成立した新法案も、自由の制約や厳罰を伴っているとはいえ、所詮は憲法で規定された範囲内での効力しか発揮できず、感染の拡大が制御不能に陥ると、次第に無用の長物と化していった。
 かくして感染者の収容と隔離がままならないまま事態は悪化の一途を辿っていき、やがて市中でも次々と発病者が確認されるようになっていった。この時点で、日本全国で八万人以上の感染者が確認されていたが、市中発病者の続出によってその数字はもはやなんの意味もなさなくなっていた。
「なんでこんなことになってしまったんだ!」
 という叫喚に近い嘆きの声は、もはや日本中の誰も彼もが思っていることであり、それは絶望によって色づけされながら、恐怖と恐慌を伴って日本全土で浸透していき、やがてそれはおぞましいほどの狂気を帯びるようになっていった。自殺者が増えただけでなく、犯罪の件数が飛躍的に増加したのだ。暴力や傷害、殺人、婦女子への暴行、そして意図的な感染拡大など、新型ウイルスによって自暴自棄に陥った者が犯罪に走るようになった結果だった。
この問題は都市部だけでなく、地方でも深刻さを増していき、自治体のなかには警察に積極的な射殺を要望したり、自警団が結成されて私刑が横行したり、治安維持の名目で自衛隊に出動を要請する所まで現れはじめ、混迷の度合いはもはや収拾がつかない領域にいたりはじめた。
 この事態に、ようやくながら深刻な危機感を抱きはじめた政府は、事あるごとに、
「たとえ感染したとしても、全員が発病すると決まったわけではない。いま現在、世界中の研究期間や企業がワクチン開発や抗ウイルス剤の開発に全力を挙げており、その成果が近いうちに現れるものと思われる。だから国民は、自制心と落ち着きをもって行動してほしい!」
と必死になって呼びかけたが、肝心のワクチンや抗ウイルス剤はいまだ開発にいたっておらず、既存の薬物での効果も皆無という現実が、下がらない致死率と増え続ける発病者の数と相まって、呼びかけの虚しさをより一層、引き立てる結果になってしまった。
 ただ、これは日本だけの問題ではなかった。もはや南半球だけでなく、北半球の国々も、ウイルスの感染拡大を止めることができず、日本と同じような・・・・・・否、中にはもっと悲惨な状態に陥ってしまった国が続々と現れはじめたのだ。
この時点で、世界の感染者数は五〇〇万人、発病者数も一二〇万人という統計が出されていたが、この時点で数値の公表はストップした。統計を出していたジョンズホプキンス大学が、学内で発生した集団感染によって閉鎖を余儀なくされたからだ。同大学の名誉教授であるフルアレッド・バナーキンが、自宅で最後まで統計公表に務めていたが、彼は後日、自室で爆発して死んでいるのが発見された。
「世界秩序は崩壊した。もはや二度と元には戻らないだろう。残念だ」
と、ジャーナリストのガナ・ケインはブログに残し、自殺した。自身の発病に気づいてから、数時間後のことであったという。
また、この記事に対して、
「その通り。人類は滅亡する。それも近い将来、必ず」
という不吉なコメントが残されていたのだが、コメント欄に残されていた氏名にはサラ・フェイトと記載されていた。
 かくして地上の状況は、一か月前には想像もできなかったほどの悪化を遂げるにいたり、それはさながら、地獄が出現したかのようであった。
 このような状況のなか、サンクチュアリ・キャピタルが拠点を置く地下シェルター内では、嵐の中の静けさというべきか、平穏な空気と時間が流れていた。
 社員たちは日々の業務を精力的にこなす一方で、余暇時間や休日はシェルター内の各所で思い思いの行動をとって過ごした。
トレーニングジムに通って汗を流す者、仲間とシアターで映画を鑑賞する者、プールで泳ぐ者、大浴場でゆっくり過ごす者、売店でアルコール類を購入して自室で酒宴を開く者、五層の書庫から本を借り込んで読みふける者、遊戯室でダーツやカードゲームに興じる者、許可を貰って六層の大型水槽でナマズ釣りを楽しむ者、水耕プラントの野菜収穫に業務外で参加する者、これを機に意中の相手を口説こうとする者、そして情事にいそしむ者と、実に様々だ。地上の混乱も、自分たちがいる以下には及ばないと判っているからこそ、慌てず、焦らず、落ち着いて行動することができるのだった。命に危険が及ばないことがどれほど幸せなことか、彼らはしみじみと感じていた。
 自分たちの現状を「箱庭の平穏」と呼ぶ一方で、彼らが悪化する地上の状況を忘れたことは決してなかった。むしろ、増す一方だと言っていいだろう。なにしろ、地上には自分たちの家族や親族、友人や知人たちが暮らしているのだ。相手の無事を知るために連絡を入れ、地上の悲惨な状況や、家族や友人たちの現状を知って心を痛める者が相次いだ。
「・・・・・・母親が、新型ウイルスに感染してしまったそうなんです。父親も濃厚接触者で、検査はまだですが、感染している可能性が高いそうです。両親は「絶対に帰ってくるな」と言っているんですが、私はどうすればいいんでしょうか」
「大学時代に世話になった友人が、マーズウイルスに感染して命を落としてしまった。あいつは、最後に俺に会いたがっていたそうですが、俺は感染が怖くて会いに行ってやれなかった。俺は、薄情な人間なんでしょうか・・・・・・」
「付き合っている彼氏が・・・・・・その、新型ウイルスに感染するのが怖いから、あたしがいるシェルターに入れてくれって泣きながら訴えてくるんです。で、でも、無理、ですよね・・・・・・」
「自分だけが平穏な場所にいることに罪悪感を覚えます。地上では多くの人が苦しんでいるのに、自分は安全な地下でなに不自由なく暮らせている。これで本当にいいのかって思うと、夜も眠れなくて・・・・・・」
「恐いんです・・・・・・とにかく、恐くて、恐くて、ウイルスに感染することが怖くて怖くてたまらないんです。ここが安全だということは、頭では判っています。でも、なにかの拍子に感染してしまったらと思うと、恐くて、怖くて、恐怖で頭が狂いそうになるんです・・・・・・」
「・・・・・・親戚から、連絡があったんです。両親がマーズウイルスに感染して死んだって。妹も、弟も、感染して、発病して、苦しんで死んだそうです。でも、俺は、家族の元に行こうとしなかった。気づかないふりをして、この地下で生活していたんです。怖かったんです・・・・・・感染したくなくて、死にたくなくて・・・・・・家族は、俺のことを憎みながら死んでいったのでしょうか・・・・・・」
 そういった悩みや不安、相談が、地上の状況が悪化して以降、ほとんど毎日のように、社長である勝也や、企業ドクターを務める慎吾の元に寄せられるようになった。
 それらに対する回答は、必然的に寄り添った内容に終始した。
「まず、抱えている悩みを打ち明けてくれてありがとう。君は心が優しいのだね。地上の状況を想いながらも、何もできない自分に対する歯がゆさや、悔しい気持ちはよく理解できる。しかし、だからと言って自分を責めないでくれ。このような世界的な惨事において、一個人の力はあまりにも無力で、どうすることもできない場合がほとんどだ。だから、いまは自分ができることだけに集中すればいい。それは仕事をすることじゃない。生きることだ。生きて、生きて、とにかく生き抜くことだ。生きていれば可能性は無限に拓けてくるし、世界が秩序を取り戻した時には再生の原動力になるはずだ。だからいまは生きることに集中しよう。生きて、生きて、生き延びて、また笑顔で地上に戻ろうじゃないか。悩むのは、それからでも遅くはないと思うよ」
その場しのぎの詭弁だと自覚しつつも、勝也も慎吾も相談を受けるつど、そう説いてまわった。社員たちの生きる気力を失わせないよう、細心の注意を払いながら。
 地上の状況に心を痛める者がいる一方で、現状を愉しんでいる者がいるのもまた事実だった。それは刹那的快楽に酔いしれることと同義であったかもしれない。自分がいま置かれている状況に特権的意識と優越感を覚え、それをことさら外部に向けて発信する者が一定数いたのだ。彼らは自分の現状を電話やメール、SNSや通信アプリを使って外部に漏らし、時には動画投稿サイトに映像を投稿して、地下での平穏な生活を自慢したのだった。なかには家庭をもった中学時代のイジメっ子に連絡を取り、自分をイジメたことを謝罪させた上で、指定した「罰」をネット上にアップすれば地下シェルターに入れてやると伝え、恥をかかせた後で嘲笑して約束を反故にした者さえいた。
 これによって引き起こされた問題は、彼らが自らの主張の正しさを証明するために「サンクチュアリ・キャピタル」の企業名を公表したことである。事態を重く見た勝也は、社員たちに向けて、地下での生活を外部に発信することを止めるよう通達を出さざるを得なくなった。
「この敏感な時期に、世間を刺激するような行為は慎んでもらいたい。人の不幸を嗤う者は、いずれその報いを必ず受けることになるだろう。地下での長期生活でストレスが溜まっていることは理解できるが、みんなには自制心をもって節度ある行動をとってもらいたい」
が、時すでに遅かった。
 一連の騒動をきっかけとして、ネット上でサンクチュアリ・キャピタルに対する非難や嫉妬、怒りや怨嗟の声が爆発して炎上したのだ。すると、それにすかさずメディアが食いついた。特に、以前サンクチュアリ・キャピタルを嘲笑する内容の特集を組んだ「朝なワイドなショー」では、サンクチュアリ・キャピタルのことを「世間の不幸に乗じて荒稼ぎをする意地汚いヘッジファンド」と紹介したうえで、事実無根の脱税やインサイダー取引をしている疑いがある、とまで断言したのだった。
 これにはさすがの勝也も怒りを覚えた。彼は激発こそしなかったものの、腹心の只野を呼びつけ、率直な心情を吐露したうえで、今回の件に関して報復行動を画策するよう指示を出したのであった。
「世間の不幸に乗じて荒稼ぎする意地汚いヘッジファンド、という表現は、まぁ、的を射ているからよしとしよう。炎上した経緯も、我々に非があることを認めよう。社員教育や危機管理がなっていない、という指摘ももっともだ。そこは素直に受け入れて、改善に務めようではないか。だが、脱税やインサイダー取引に関するデマに関しては、事実無根で絶対に容赦できないッ。我々は常に法律に則って行動しており、取り引きに関してやましいことは一切していない。すぐに抗議だ」
「わかりました。すぐにテレビ局と、スポンサー企業に対して抗議いたします。それと、報復として、株主総会での発言権を得るために、一定数の株式を買い付ける準備にも取り掛かります」
「よろしく頼む。だが、テレビ局に対しての抗議は、私が直々におこなう」
「? それは、なぜですか?」
「外に出ないにしても、表に出てこちらの主張を述べないことには負け犬と変わらん。抗議は裏でするモノではなく、正々堂々と述べてこそ、こちらの主張の正しさを貫けるというものだからだ」
・・・・・・かくして勝也はテレビ局へと連絡するにいたり、紆余曲折を経て、リモートでのテレビ出演が決まった。八月末のことだ。表向きの理由は、社員が世間を騒がせたことを謝罪するため。しかし、それと並行する形で、自分たちの主張と、番組に対するささやかな報復もおこなうつもりであった。


・・・・・・続きの掲載は未定です。

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索