時 自若 2021/06/13 19:04

浜薔薇の耳掃除「第15話」

「あれ?蘆根さんは?」
「今日は爺の耳掃除で勘弁してください」
そういってタモツと傑が本日は浜薔薇で接客をする。
タモツと並んで仕事をするのが初めての傑は、全部勉強だと思ってタモツが何をやるのかを見学していた。


先日、仕事の終わりに、タモツが蘆根と傑に、二人のシェービングと耳掻きをするといってきた。
「先に傑でお願いします」
そういった蘆根は飼い猫の様子を一度見に行った。
「よろしくお願いします」
「そんなに緊張するもんじゃないよ、ただの髭剃りだもんな」
そういってもだ。
(色んな人が習いに来るような人のシェービングだもんな)
たまに、ふらっとタモツが店内にやってきて、お客さんのシェービングをするのだが。
(こんなに短時間じゃ、僕は終わらない)
あっという間にシェービングを終わらせてしまう、これが長年培ってきたものなんだろう技術がそこにあった。
顔剃りというのは、平面ではない。
小鼻や顎、首などはやはり気を使う。
それをささっとやって。
「はい、ご苦労さん」
で終わらせるのである。
蘆根が言うには、昔はタモツは見て盗めタイプだったのだが、女将さんが無くなってからはポツリとしゃべるようになったらしい。
そしてこのように教え子の髭を剃るも、蘆根が来てからである。
(本当に先輩はすごいな)
蘆根という男は、資格を取ってからも向上心の塊のようなところがあって。
日帰りで行けるような腕のいい店があったら、そこに実際に行ってみるなどをしていた。
そしてタモツのような頑固な職人とも交流をかわせるので、この近所の職人気質溢れる方々からは…
「いい弟子持ったわ」
と誉めるばかりか、うちにくれと、言われたりする始末である。
そういうわけで、もしも蘆根が廃業や転職をするなどがあったとしても、この性格、この姿勢がそのままのうちは、狙っているところが多いのだ。


そしてタモツと傑に店を任せた蘆根は、何をしているかというと、強○的に気分転換である。
あまりにもそればかり集中してしまう、蘆根らしいといえば蘆根らしい。
「はーい、それでは玉ねぎを切りましょう」
それでどこにいるかというと、浜薔薇がある地域の調理科主催の調理実習に来ていた。
「じゃあ、俺が玉ねぎ切ります」
一般参加者としてピザを本日は作る。
どうしても蘆根にはやってみたいことがあった。
「それでは生地の方を」
そう、それはグルグルっとピザ生地を回すこと!
しかしだ。
「それはやらないでくださいね」
先生に先に注意されてしまった。
「ピザ実習だと、必ず何人か回して、飛ばしてしまうので、やらないでくださいね」
温和な先生のトーンが変わったので、これはマジなやつであった。

話を戻そう。
蘆根に耳掃除をしてもらおうと思ったこのお客さんは、今朝いきなり耳が痒くなったので、とりあえず耳かきをしたところ。
匙の上に取れたものが、はみ出るぐらい大きく、そして毛が生えているかのようだった。
これを見た瞬間。
(耳掃除、結構きちんとしていたから、汚くないはずなんだけども…)
世の中には二種類の人間がいる。
それは耳を掃除して取れたものに喜ぶ人間と、このように落ち込む人間である。
おそらくこの文章を見ている人間は喜ぶ人間であり、落ち込む人間の気持ちはわからぬ。
このお客さんなどはそれを見て落ち込み、これは先に耳をきれいにしてからでないと、他に行けないぞ、そんな気持ちで浜薔薇に来たのだ。
椅子に座って、タモツの耳掃除をするぞという段階が来ても、あの悪夢のような、耳から取れた毛玉が脳裏に焼き付いてしょうがない。
しかしだ。
スッ
タモツが耳掃除を始めと、耳の中に入ってくるカリカリと垢を削り取る音が響き、だんだんとリラックスしていく。
(さすがは蘆根さんのお師匠さんだ)
これを見て、傑はこう分析する。
(今はカメラがあるから耳の中を覗いて耳かきができるけども、先生はまるで見えているかのように耳かきをする)
カメラが一般的ではない時代ならば、浜薔薇でしか体験できないような耳掃除だったのだろう。
「お客さんの耳の中に、抜けた毛が多いのは、こっちにも次の季節が来たってことですよ」
季節の変わり目は耳の中ではよくわかるそうだ。
「そういうものなのか」
「今日はカミソリかけないで、代わりに耳を回しましょう、帰ったらゆっくりしてください、無理は禁物ですよ」
そういって耳の凝りをほぐすように回し始めた、普段眼鏡やマスクで負担がかかっていた耳に、じんわりとあたたかいものが流れていくのを感じた。
「…あっ」
お客さんは寝落ちしそうになったので、急いで目をあけた。
「はい、おしまい」
本日はこのようにタモツが耳掃除を全て行うので、今日来たお客さんはラッキーである。
(蘆根さんには悪いけども)
(レジェンドを体験できるチャンス)
お客さんたちがそう考えているのが傑には手に取るようにわかった。
閉店してから蘆根は店に顔を出す。
「今日はお客さんが多かったんだな、やっぱり店に出れば良かったな」
なんて言われたときには。
「そうですかね?」
と傑は曖昧に答えるしかなかった。

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