有坂総一郎 2024/03/21 18:00

ドイツ連邦内における鉄道地図1849年

これによると、オーストリア帝国領内の1849年時点における鉄道開業状態がかなり把握しやすくなった。無論、プロイセンやバイエルンなどの各領邦鉄道の状況も把握出来る。

■49年のドイツ連邦鉄道地図
https://de.wikipedia.org/wiki/Oberschlesische_Eisenbahn#/media/Datei:Bahnkarte_Deutschland_1849.jpg

いや、これは負けるね。うん。兵站がもう絶望的よね。これ見てしまうと、ハプスブルク家がいくら執念でプロイセンに食らいつこうとしても駄目ですわ。

メッテルニヒ宰相、何してたん?バイエルンの鉄道開業が35年だけれど、それから13年しか立ってない状態でこれって、終わってますやん。いくらカネのないハプスブルク帝国といえども、ここまで差が付くと戦争しちゃ駄目ですわ。

まぁ、なんとか押さえていたメッテルニヒ宰相も48年の革命で亡命してしまっているので、それ以後はハンガリー問題とかで片手間に鉄道造るしかないから更に差が付いてしまう結果になるのは言わずもがな。

■74年のオーストリア=ハンガリー帝国鉄道地図
https://de.wikipedia.org/wiki/Kaiser_Franz_Josephs-Bahn#/media/Datei:Railway_Map_of_the_Austro-Hungarian_Monarchy_in_1874.png

まぁ、74年のオーストリア=ハンガリー帝国鉄道地図を見ると、49年から74年までの25年で全国的な鉄道網を構築したのだから普墺戦争前後の努力の甲斐を見ることは出来るけれども、それと同水準とはいえ無くてもかなりの鉄道網が49年時点でドイツ連邦全体で見ると存在していて、それがパリ-ブリュッセル-ケルン-ハノーヴァー-ベルリン-ポーゼンの東西軸を貫通していて、その上で、ザクセンからシュレジエンの国境沿いにまで鉄道が敷設され、ラインラントの兵を2-4日でシュレジエンの国境に送ることが可能なのだ。

それに対して、帝都ヴィーンからプラーグ、オストラウまでしかプロイセン国境近くに延びる鉄道は存在しない。プラーグから国境までは徒歩/馬車輸送になる。そらぁ、ベーメンで大敗するわけだ。

これ、新兵器がどうこうではなく、単純に兵站の問題だよね。送り込める物量が絶対的に違う。国境まで鉄道で発送出来るプロイセンと、後方にあるプラーグまでしか鉄道発送出来ないのでは決定力に欠けるのは言うまでも無い。

そもそも、ザクセンそのものが開戦早々に自国領を捨ててオーストリア領内のベーメンで戦力を立て直しているのも鉄道で兵を送られてあっけなく自国領が制圧されているからに他ならない。

これはいけない。やる前から終わってると改めて認識するに至る。

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