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[♀/連載]不浄奇談 [3-2.休憩 尼野悠莉]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    3-2.休憩 尼野悠莉

 背にしていた扉から、ドンドンドン、と重い衝撃音がして。
 ひゃあ、と思わず素っ頓狂な声が漏れて。
 しょろ、と何かの迸りを股間に覚える。
 湯田の語尾をかき消すように、突如として背後から鳴り響いた轟音。その物恐ろしい音に気圧されて、一瞬にして皆が黙り込む。
 誰も口を開けない。皆が緊張に満ちた表情で見守る中、音は屋上へと出るための扉から断続的に響き続ける。ドン、ドンドンドン、ドンドン。これは、と尼野悠莉はピンと来た。これはノックだ。屋上にいる誰かが、この踊り場へと続く扉を外側から叩いているのだ。
 まるで金縛りにでもあったかのごとく、誰もが動きを止めていた。悠莉も固唾を呑んで見守る。胸の鼓動が強く打つ。実際に音が鳴っていたのは十秒程度だったにも関わらず、悠莉にはそれがひどく長く感じられた。次第に扉を叩く音は収まっていき、ついには完全に鳴り止んだ。後には、さらさらと降る雨音、ぱちゃぱちゃと雨樋を伝って落ちる水の響きだけが、静まり返った踊り場に残る。
 場のどこかから、ほお、とため息が漏れる。安堵の吐息。それが合図だったかのように、皆がようやく停止していた活動を取り戻す。悠莉は思い出したように、息を吸う。ねっとりとした湿気を含んだ空気。わずかに混ざる黴の臭いが、鼻腔を刺す。
「あっ、ど、どうしよ。私、指、離れ……」声に反応して目をやると、えりかが自分の指とウィジャボード上の十円玉を見比べて、慌てふためいている。「今ので、指、離れちゃいましたよお……!」
 悠莉は自分の指を見る。内心、ほっとする。自分は十円玉から離れていない。見れば、はっきりと腰が引けている三夏の指も、すんでのところで十円玉上に残っている。しかし、それよりも何よりも――まずいことに悠莉は気が付いた。
 明らかに、下着が湿っていたのだ。ひょっとして、私、今の音に驚いた拍子に……。そういえば、と思い返す。さっき、確かにそれらしい感覚があったような……。
 自分の失敗を理解した瞬間、顔が熱くなる。
「湯田ちゃん、ちょっと、これ早く終わらせてよ!」悠莉は焦燥感に駆られて叫んだ。必要以上の大声になってしまっていることを理解しつつも、あらゆる意味で、自由に動きの取れない姿勢のままのんびりとしていられる状況ではなかった。「ちゃんと終わらせないと、ヤバいんでしょ!」
 茫然としていた湯田があわあわしながらやって来て、「お、お兄ちゃーん、『後ろ』はわかったからあ。今日はおしまい。ね。いいから、早く早く。ごめん、ごめんね。好きよお兄ちゃん、わたしも好き好き大好き超愛してる」などとウィジャボード上に宿るという亡き兄の説得を始める。湯田の半ば強引な説得が功を奏したのか、十円玉は鳥居に戻り、どうにか儀式を終えることができた。
 湯田と三夏が揃って息をつく。ようやく自由を取り戻し、悠莉も人心地ついたその瞬間だった。
 ドンドン、ドンドン。また、金属製の扉が騒音を立て始める。えりかが両手で耳を塞ぐ。悠莉も身を硬くした。
 だがしかし、今度は先ほどとは違った。扉を叩く音に遅れて、声がやってきたのだ。
「おーい、開けてよー」場にそぐわない、明るい少女の声。この場の全員がよく知る、聞き覚えのある声が言った。「あたしだよ、あたし! みんな大好き、亜由美ちゃんだぞー」
 はあ? と思う。亜由美。その名前と声、常と変わらぬ話しぶりに、硬直した身体から一気に力が抜けていくのがわかる。
 悠莉だけではない。場に張り詰めていた緊張感が、一気にほどけていく。
「な、なあんだ。そういうこと? 亜由美なのお?」悠莉は目の前に迫っていた恐怖から解放された喜び半分、おちびりに至るほどに震え上がらされてしまった口惜しさ半分に悪態をつく。「お前、もう……わざわざ遠回りして屋上から戻ってくるとかさあ。驚かすにしても、バカすぎでしょ。それはさすがに反則だって」
「なはははは」亜由美の笑い声が、扉の向こうからやってくる。「いいからいいから、雨降り出しちゃったしさあ。お願い。開けて開けて」
「いやまあ、言われなくても開けるけどさあ」
 屋上の錠はサムターン式。外側からは無理だが、内側からなら摘みを捻るだけで容易に開くことができる構造になっている。悠莉は金属製の扉の向こうにいる亜由美に促されるまま、錠を外そうと摘みに指をかけた。
「――待って」
 瞬間、背後からの鋭い制止の声が飛んできた。悠莉は動きを止めた。振り返ると、琴美がこちらを見つめていた。
 険しい表情だった。悠莉はわずかに気圧された。でも、強いて、笑おうとする。ここで笑えるからこそ今後もハッタリが効くのだ、と自分に言い聞かせながら。
「なにさ、そんな怖い顔して」悠莉は挑戦を受けるようにして、琴美のことを見返す。「だって、これ、亜由美でしょ。もう、そういうの、いいからさ。開けるよ?」
「やめて。開けないで」
 あくまでも、頑なな声。声量は抑え気味だが、剣呑な雰囲気は変わらない。まるで、睨みつけるような厳しい瞳。
 悠莉は喉の辺りがきゅう、と締め付けられる感覚を覚えた。その感覚が何を示しているのか理解できないまま、悠莉は口を開く。上手く動かない喉からは、自ずと険のある声が出る。
「なんで? て言うか、なにその目。馬鹿にしてんの?」
 余裕を持たなければ笑われてしまう。笑われるのはたまらない。だから、常に余裕を持って、笑う側でいなければいけないのに――濡れた下着が肌に貼りついている。下着を通り越した雫がつつー、と太腿を伝う不快な感触がする。
 悠莉は笑えなかった。自分がすっかり余裕をなくしてしまっていることを、はっきりと悟る。
 心音が早鐘のように打っている。背筋が奇妙に冷たい。太腿を伝う雫がぽとり、と床へと落ちた瞬間、はたと気づく。自分は情けないことに、おしっこちびりの女の子らしい幼稚な、それでいて切実な怯えに囚われてしまっているのだと。だから、強いて脅かすかのごとき態度を取る琴美に、異様なまでに反感を抱いているのだと。自覚していなかった自らの姿を知り、そのか弱い○女のごとき姿を頭の中に想い描いた瞬間、悠莉は自分自身がひどくちっぽけな存在になったように感じた。『他の子には負けない』という自負心の強い悠莉が自分の存在をこうまで頼りなく感じるのは、この学校に入学して以来、初めてのことだった。
「ちょっとー。何の話してんのさあ。早く開けてよー、濡れちゃうよー」亜由美の声が、急かしてくる。
「考えてもみて、悠莉」悠莉の屈託を察しているのかいないのか。琴美は外から聞こえる声を無視して、尖った声のまま告げる。表情はわずかに引きつっている。「どうして、亜由美が屋上なんかにいるの?」
「どうしてって」何を言われているのか理解できず、悠莉は口ごもる。「そりゃ、私達を驚かせようとして……」
「だから、どうやって?」琴美が言葉を被せてくる。「ここを通らないと、屋上には出られないんだよ?」
「……」
 冷え切った手でうなじを撫でられたような感覚。場が、しん、と静まり返る。
 考えてみれば、確かにそうだった。自分達は屋上へと上がることのできる、唯一の道のど真ん中に居座っているのだ。自分達の目を盗んで、屋上に上がることなんてできるはずがない。でも、と悠莉は抗弁する。ありえないことが起きていることを認めたくないがために、問題を矮小化したいがために、抗弁する。
「いや、待ってよ。そう、非常階段! 非常階段があるでしょ。あれを使えば、屋上まで出ることだって……」
「あー、無理です。非常階段では、屋上までは上がれません」予期しない地点から、返答が返ってきた。湯田だった。「わたし、ああいうひと気のない場所は好きなんで、知っているんです。非常階段は屋上に上がる途中に鍵付きの扉があって、厳重に封鎖されていますから。鍵がないと絶対通れません。前に先生に聞いてみたら、鍵は警備会社か何かに預けられてるって話で……亜由美先輩では難しいかと……」
 悠莉は考えるより先に口を開き、反論しようとする。しかし、湯田の話に理解が追いついた途端、何も言葉を発せなくなってしまった。琴美や湯田の言うことの方が、明らかに筋が通っている。
 錠を解除するため、すでに指が触れていた屋上へと続く扉の摘み。冷え切ったその金属部品から、恐る恐る手を離す。
「それじゃあ、今、外にいるのは――」
 一瞬の沈黙が降りる。さらさらと降り続ける雨の音が、薄気味悪さを伴って背中の中枢辺りを震わせる。
 直後、がんっ、とこれまで以上に物凄い音で扉が叩かれる。まるで、悠莉の下した決断への不満をぶちまけるような一撃。続いて、数人が半狂乱になって、めちゃくちゃに叩き続けない限り実現できないほどの勢いで、扉が乱打される。
 巻き起こった凄まじい音と衝撃の嵐に圧倒されて、悠莉は耳を塞ぐ。恐怖のあまり、今にもまた開いてしまいそうなおしっこの穴を固く締める。そのうち、心の中にいつもの呪文が蘇ってくる。
 他の子には負けない。びびっちゃだめ。笑われるのは嫌だ。そうだ。
 笑うんだ。
 悠莉は顔を上げた。皆、いまだ続く音に怯え切って、思い思いの姿勢で身を縮め、耳を塞ぎ、顔を伏せていた。幼子のような、完全に恐怖に屈した姿。
 悠莉は無理に笑った。笑うことができた。負けていない、と。このわけのわからない音の荒れ狂う修羅場で、顔を上げることができているのは、ただ一人自分だけ。自分が一番、恐怖に耐えることができている。自分が一番、この場で心の余裕を保つことができている。
 先ほど突っかかってきた琴美も、いつも澄ましているむかつく三夏も、掴み所のない湯田も、個人的な事情で今一番凹ませてやりたいえりかも、誰も今この状況で笑える人間なんていない。
 過去が脳裏をよぎる。笑われることなく、笑い続けて来た人生。勝ち続けて来た人生。嫌がらせもやった。せこい裏工作もやった。いじめだってやった。演劇部でも、意図的に顧問の男性教師に近づくことで、一年生の頃から良い役をもらって、常に中心に近い場所を守り続けてきた。最近は顧問の視線がえりかに移りつつあるのが最大の不満の種だけれど、でも、必ず勝つ――。
 悠莉の中で損なわれつつあった自己像が、急速に再構築されていく。頼りない幼子から、いつもの飄々とした尼野悠莉へ――。
 長く続いた音が次第に消え、皆が顔を上げ始めた時には、いまだ湿り気を帯びた下着を除き、悠莉は元通りの姿を取り戻していた。
 怖々と周囲を見回す彼女達を軽く見下ろして、悠莉は言った。うっすらと皮肉な笑みを浮かべて。
「とりあえず、静かになったね。……それで、どうする? 休憩時間だけど。誰か、トイレ、行く?」
 手を挙げる者は、誰もいなかった。

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[♀/連載]不浄奇談 [3-1-3.湯田真冬の話 急]

『不浄奇談』キャラクター紹介


 大切な夜のお守りであるオムツが見つからない南ちゃん。見ていてかわいそうになるぐらいに慌てふためいて、失くしてしまったものを探します。でも、あはっ、オムツなんて持ち込んでいること自体、みんなに秘密にしなければならない恥ずかしいシロモノです。事情をよく知るわたし以外の誰にも相談できず、結局、見つからないまま寝る時間になってしまいました。南ちゃんは不安に怯えながらも、先生に促されるまま、布団に入るしかありません。
 その夜、気持ちよく眠っていたわたしは、南ちゃんに揺り起こされました。南ちゃんは奇跡的に、夜、尿意を感じて目覚めることができたのです。一人でトイレに行くのが怖いから、わたしについてきて欲しいのだと瞬時に理解できました。わたしはとっさに狸寝入りを決め込みました。何度揺すられても、声をかけられても、わたしは目覚めてあげません。同じ部屋で、南ちゃんと特別仲良くしている子はわたし以外には一人もいません。南ちゃんは諦めて、一人で部屋を出ました。わたしは心の中で強く念じました。応援しました。もちろん、南ちゃんを、ではありません。南ちゃんの中で大きく育ったわたしの子供達を、です。数秒後、南ちゃんは戻ってきました。おどおどした様子で、です。恐ろしい影を纏ったわたしの子供達が、また、南ちゃんを通せんぼしたのです。ただでさえ慣れない宿泊施設で、南ちゃんは夜闇に潜むモノに怯えるあまり、一人でトイレに行くことをすら断念してしまったのです。わたしは自分の布団の中で、一人、ほくそ笑みました。五年生も近い時期にもなって、南ちゃんの行動はあまりにも幼稚で意気地のない、同時に危険をはらんだ選択でした。
 当然、そういうなさけない選択をしてしまった子には、神様から素敵な罰が用意されているものです。夜中、眠っていたわたしがふと目を覚ますと、隣で横になる南ちゃんの声が耳につきました。寝息混じりの、苦しそうな声。トイレに行けないまま、南ちゃんは眠ってしまっていたのです。そして、暗闇の中、南ちゃんは眉根をひそめた辛そうな表情をしていました。何やらうわごとを呟き、うなされてさえいます。神様は夜中、一人でトイレに行けなかった臆病者に対する罰として、南ちゃんに胸躍る怖い夢をプレゼントしてあげたようでした。きっと、わたしが嫌というほど聞かせてあげた怪談が、暗闇を纏ったわたしの子供達が、南ちゃんの中で大活躍しているに違いありません。わたしの胸は自ずと高鳴ります。やっちゃえやっちゃえ、とわたしは悪意のある声援を送ります。お布団の中でぜーんぶやって、大恥かいちゃえ。わたしの見守る前で、不意に南ちゃんの眉根がやんわりと緩みました。口元から深い吐息が漏れ、頬にかすかな朱が差しました。そういう風に、見えました。南ちゃんが無意識に発してしまった水流の音さえも、かすかにですが、確かに聞いた気がします。わたしは、やったあ、と心の中ではしゃぎました。南ちゃん、やったあ、やっちゃったあ、と。もちろん、掛け布団に隠れていたので、確証はありませんでした。でも、確かにこの時、南ちゃんは失敗してしまっていたのだと思います。
 わたしは南ちゃんが行けなかったトイレに行って、南ちゃんがトイレでしたかったはずのことをして、気持ちよく眠りました。濡らしてしまった衣服のせいか、不快そうに眉を寄せる南ちゃんに「明日が楽しみだね。南ちゃん」とお友達らしい声をかけてから。
 次の日の朝、南ちゃんはなかなか布団から起きてくることができませんでした。顔は血の気が引いて蒼白、額には汗も噴き出して、今にも泣き出してしまいそう。わたしはそんな南ちゃんを、あえて放っておきました。何もわたしが悪役になって、無理に失敗を暴き出すことはありません。どうせ、いずれはばれてしまうに決まっていましたから、この『おねしょしてしまった日の朝』のスリルに溢れた時間を、南ちゃんに少しでも長く味わわせてあげようという配慮でした。
 空は暗く、外にはしとしとと雨が降る音が聞こえる――どことなく湿った空気の漂う、しかし、素敵な朝でした。本当に最高に素敵な朝。南ちゃんはいじらしく、一生懸命に隠し続けました。きっと、本来ならば、そっとわたしに失敗の真実を伝えて協力してもらい、なるべく穏便に物事を収めてしまいたかったはずです。でも、わたしはその朝、わざと南ちゃんに近づきませんでした。南ちゃんは布団から動けないのですから、距離さえ取ってしまえば、他の子に聞かれずにわたしにだけ真実を伝えることができません。機会を窺う南ちゃんは、神様に祈っていたはずです。お願いします神様、どうにか、真冬ちゃん以外の誰にもバレずに終わらせて下さい――。真冬ちゃん、早くこっちに来て――。そんな風に願っていたはずです。
 じりじりとした時間が流れました。そして、タイムリミットが訪れました。朝礼の時間でした。みんな、自分達の部屋から出て、宿泊施設にあるホールに集合しなければなりません。みんなが着替えて準備を終えているのに、南ちゃんだけがいまだパジャマのまま布団の中――嫌でも目立ってしまいますよね。
 南ちゃんはみんなの注目を浴びて、とっさに体調が悪いふりをしました。確かに冷や汗をかいていましたし、顔色も悪い。でも、明らかに挙動不審で、中の一人がそのことに気付きました。
「ねえ、南ちゃんさあ」とその子はあくまで冗談めかして言いました。わたしは背筋がぞくぞくとして、興奮を隠すことができませんでした。運命の瞬間が、今まさに始まろうとしているという確かな予感がありました。窓の外では、変わらず雨が降り続いています。「もしかして――おねしょ、したんじゃないの」
 その瞬間、南ちゃんの顔色がさあ、と変わりました。病人じみた蒼白から羞恥の朱色へと。
 南ちゃんは返答できずに、黙りこくってしまいました。予期せぬ反応に、同室の子達もすぐには何も言えません。少し遅れて、同室の子の一人が声を上げて笑いました。つられたようにして、他の全員が笑いました。それから、総出で南ちゃんの失敗を隠していた掛け布団が暴かれました。わたしはみんなを止めようとして、押しのけられたふりをしました。どさくさに紛れて、元々、閉まっていた部屋の扉をそっと開けるという大切な仕事をするために。扉が開きさえすれば、集合場所のホールはすぐそこでしたから。室内で発された声は嫌でも、すでに集合している同学年の子達の耳に届いてしまうのです。
 暴かれた布団の中には、微笑ましいことに、南ちゃんが意に反して作ってしまった素敵な世界地図がありました。四年生らしい立派な、でも、四年生にしてはあまりにもかわいらしい液体で描かれた力作でした。これだけで、室内が沸き返ります。「南ちゃん、おねしょだー!」という甲高い、からかい混じりの声はホールにまで響き渡ります。遅れて、ホールの方からざわめきが、そして様子を見るために野次馬の子達もやってきます。自ら作ってしまったかわいらしい世界地図の上に尻餅をついて、パジャマの下をぐっしょり濡らした南ちゃんの姿をたくさんの子が目撃します。南ちゃんは真っ赤になって俯きました。「見ないで……あっち行って……!」と南ちゃんは懇願しました。でも、誰もそんなお願いを聞いたりはしません。
 南ちゃんのおねしょは南ちゃん自身の願いに反して、こうして大騒動に発展し、学年中に広がってしまいました。わたしはこれ以上ないほどに深い満足感を覚えました。これはわたしの作り出した事件だったからです。わたしが南ちゃんを追い詰めて、みんなの前で大恥をかくように仕向けてあげた結果だったからです。みんな、南ちゃんに注目していました。この事件を作り出したわたしを責める人はやはり誰もおらず、南ちゃんだけが責められている――まるで、完全犯罪を成功させた犯罪者のような気分でした。わたしには何でもできる。そんな風に思えました。
 でも、やっぱり、最後の最後で南ちゃんにトドメを刺したのは、わたしの子供達――怖い話とこっくりさんから生まれた影達だったように思います。あの時、一人で夜のトイレを済ませることができていれば、わたしも打つ手はなかったのですから。だから、皆さんもあんまり怖い話やこっくりさんを甘く見ていてはダメです。ちょっと間違ったら、幽霊やお化けなんて実際には出てこなくても、それらには人の運命をねじ曲げてしまうぐらいの力があるんですからね。ふふふ。
 南ちゃんは運命をねじ曲げられて、宿泊行事で見事な変身を遂げました。行きにはただのクラスの端にいる普通の子だったのに、帰ってきた時には、もう、みんなから馬鹿にされるおねしょキャラの女の子でした。
 ここまで来てしまうと、わたしも南ちゃんと一緒にいるだけで笑われてしまいます。いじめられる危険性さえあります。だから、南ちゃんと一緒にいる時には仲の良いお友達のふりをしながらも、陰では進んで南ちゃんの名誉を傷つけるようなことを言いました。南ちゃんのおねしょ癖のこともバラしました。毎晩、オムツに頼っている情けなくてかわいらしい面も、面白おかしく喋ってしまいました。みんな、大笑いしてくれました。まあ、ある時、陰口を叩いて南ちゃんを笑い物にしているところを本人に見つかってしまってからは、さすがにわたしもスタンスを変えざるをえませんでしたけど。
 わたしはそれ以降、お友達のふりをしながら南ちゃんを貶める立場を捨てて、終始一貫して南ちゃんをからかう立場になりました。毎朝のように、南ちゃんの夜の結果をこっくりさんに聞いて、みんなの前で発表するのです。難しいことはありません。みんなの注目を集めてからウィジャボードに十円玉を置いてこう言えばいいんです。『南ちゃんは今朝おねしょをしましたか?』。さっきも言いましたよね? 答えはもちろん、「はい」です。それだけで、周囲がわっと湧きます。「いいえ」は一度だって出してあげません。みんなの中には、あの日、南ちゃんがおねしょした姿を目撃した子が多くいました。そのイメージを利用してこっくりさんを仕掛ければ、もしも南ちゃんのおねしょ癖が治っていたって、全然意味ありません。みんなの中では、毎晩おねしょしたことにできるんですよ。いくら本人が否定しても、その証言こそが嘘ということになります。だって、こっくりさんが言っているんですから。こっくりさんはぜーんぶお見通しなんですから。あはは。
 ああ、すみません。久しぶりにこっくりさんの雰囲気を味わったせいで、キャラが変わってしまっていました。わたしはそういうのはもう卒業したんですが、ついついスイッチが入ってしまって、あの頃のように……。
 ……まあ、でも、そんな風にめちゃくちゃできたのは、五年生ぐらいまででした。六年生辺りから、いよいよ周りのみんなも知恵を付け出して、そう簡単には騙されてくれなくなりました。全てを奪ってあげたつもりだったのに、その頃にはちょうど南ちゃんも元気を取り戻し始めていました。じっくりいたぶって、毎日おもちゃにして泣かしてあげたのに、本当にしぶとい子です。南ちゃんは裏切られた怒りを込めて、わたしを攻撃するようになりました。まあ、南ちゃん一人の時には、おねしょネタで何度か返り討ちにしてあげましたけど。おねしょのこと、じっくりいじってあげたら、真っ赤になって泣いちゃったから、きっと、まだ完全には治っていなかったんじゃないかなあ。もう、わたしたち、六年生だったんですけどね。ふふふ。
 あぁ、ごめんなさい。笑っちゃダメでしたよね。だって、この中には、当時の南ちゃんよりも大きいのにまだやっちゃっている人がいるんですから……。くすくす。あぁ、ごめんなさい、また……。でも、だってぇ、中学生にまでなっておねしょなんてして……。そんな子、どんなにみんなにこっぴどく笑われちゃっても文句は言えないですよお。馬鹿にされたからって、そんな子に怒る権利があると思いますか? ありませんよお。おねしょも自分で治せないくせに、馬鹿にされて怒るなんて生意気です。文句があるなら、おねしょをちゃーんと治してから言ったらいいのに。治せないんですかねえ? みーんな、ちゃんと治してるのにぃ? ふふ、そんなこともできない劣等生、笑われて当たり前なんです。大人しく笑い物にされて、真っ赤になって、みんなに素敵な楽しみを提供していればいいんです。それがお似合いなんです。あー、そうだ。もしアレだったら、後でこっくりさんに聞いてみましょうかあ? ちゃーんとお手手を挙げて、「私がおねしょの犯人です」って自己申告できないなら、後で本当にしちゃいますからねえ。覚悟していて下さいねえ。あははは。
 おっと……またスイッチが入ってしまっていましたね。とにかく、当時のわたしは、今みたいな具合でした。意地の悪い、陰湿なやり方をしていました。そういうことを長くやっていたせいか、知らないところで恨みを買っていたんでしょうね。わたしは徐々に人望を失っていき、最終的には取り巻きだった子達のほとんどが去って行きました。ついには南ちゃんだけじゃなく、みんなからも、嘘つき、というレッテルを貼られてしまって。失礼ですよね。嘘つきなんて。いくらなんでも、言いすぎだと思いません? わたしはただ、みんなに楽しい遊びや、心躍るイベントを提供してあげているつもりだったのに……。
 さて、嘘つき扱いがひどくなって、いよいよ友達がいなくなってきたわたしは寂しい日々を送っていました。でも、誰も相手にしてくれなくなった中でも、きちんと向き合ってくれる人が人が一人だけいました。お兄ちゃんです。あんなに意地悪だったお兄ちゃんでしたが、この時は優しくしてくれました。これは、ええ、本当に嬉しかったです。わたしはあまり人に心を開くタイプではなかったので、両親にもお兄ちゃんにも本当の意味で心を開いていたわけではありませんでした。そもそも、お兄ちゃんのことは意地悪で苦手でしたしね。
 でも、この時はわりと困り果てていたこともあって、お兄ちゃんの姿が輝いて見えました。日が経つにつれて、わたしの中でお兄ちゃんの存在はどんどんと大きくなっていきました。あんなに苦手だったのに、不思議ですね。わたしは次第に思い始めました。お兄ちゃんだけは、お兄ちゃんにだけは心を開いても良いかも……って。
 そんな時でした。最後のこっくりさんをお兄ちゃんとやったのは。わたしは六年生、お兄ちゃんは中学二年生でした。
 でも、やっぱり、血の繋がった兄妹ですよね。わたしと同じく、お兄ちゃんもこっくりさんを悪用しました。お兄ちゃんは最初に、わたしの好きな人を聞いて「いない」というのを確認しました。その後、わたしのことを好きな人が誰かを質問したんです。
 ……あれは、自然と動いたわけじゃなかった。絶対にわざとだった。滑らかに動いたその十円玉が指し示した名前は、わたし達のよく知る名前。お兄ちゃんの名前でした。もちろん、わたしは「妹として好き」という意味だと解釈しようとしました。でも、お兄ちゃんは、そうじゃなかった。
 十円玉に指を置いたままの姿勢で――き、キスを、迫ってきました。そこでわたしは理解しました。「妹として好き」じゃないんだって。でも、キスぐらいさせてあげてもいい、と思いました。それぐらいなら許してあげよう、と。でも、片方の手がお尻に伸びてきて、凄く嫌な感じがして、それで――。
 あぁ、雨の音が聞こえますね。外、降ってきたみたいですね。雨の日の怪談、雨の日のこっくりさん、なんて。なんだか、不思議と、気持ちが盛り上がってしまいますね。そう思いませんか?
 よく憶えています。お兄ちゃんと最後のこっくりさんをやったあの夕暮れも、雨が降っていました。しとしとしと、静かに降っていました。
 お兄ちゃんを思わず払いのけた瞬間、わたしの指はまだ十円玉に載っていました。お兄ちゃんの指は離れていました。色々なルール破りをしてきたわたし達でしたが、十円玉から途中で指を離してしまった人を見たのは初めてでした。それだけは破ってはいけないと、なんとなく、本能的に理解していたんですね。しばらくの沈黙の後、何事もなかったかのようにわたし達は二人で儀式を終えました。でも、始める前と終わった後では、何もかもが違ってしまっていました。わたしの心の扉は、もうすっかり閉じてしまっていました。そして、お兄ちゃんはお兄ちゃんで、青ざめた、この世の終わりのような顔をしていました。
 お兄ちゃんが亡くなったのは、数日後でした。死因は交通事故。あぁ、今まで言い忘れていましたが、わたしのお兄ちゃんは、もういないんです。故人なのです。赤信号なのに、ふらふらと車の前に飛び出して行ったそうです。直接の原因は交通事故であっても、自殺じみたその死に方に至った、間接的な原因が何だったのかはわかりません。こっくりさんのルールを破った禁忌破りのせいかもしれませんし、わたしにしたことや、わたしがしたことのせいかもしれません。
 何にしても、お兄ちゃんは一年前に死にました。『どうろ』で『くるま』に轢かれて死にました。わたしは今でもわかりません。わたしはその時まで、ずうっと信じていたんですよ。最初にしたこっくりさんの結果は――『どうろ』も、『くるま』も、『ふじょう』も――全部全部、お兄ちゃんがわざとわたしを怖がらせようとしてやったことだったんだって。この死に様も、そうなんでしょうか。お兄ちゃんの最後の嫌がらせ、なんでしょうか。そして、今日の『不浄奇談』。『不浄奇談』なんてまるで運命のような……。でも、こっくりさんなんて、本当はいないはずなのに。
 ……あぁ、そうなんです。こっくりさんなんて、本当はいないんですよ。いないはず、なんです。
 本当のことを言います。わたしは何度も何度もこっくりさんをしてきましたけど、でも、自然と十円玉が動いたことなんてただの一度もありませんでした。いつも、わたしが好き勝手に動かしていただけです。
 だけど、不思議なんです。――皆さん、指をわざと自分の意思で動かしている方は、いますか。いませんよね。勝手に、動いているんですよね。
 そうなんです。ある日を境に、ある条件を満たした時だけ、本当に勝手に十円玉が動くようになったんです。その境となった日は、お兄ちゃんが死んだ日です。条件は今、皆さんが使っているそのウィジャボードを使うことです。
 あの日、こっくりさんの儀式を終えた瞬間から、ずうっと思っているんですよね。もしかしたら、私はお兄ちゃんを受け入れてあげるべきだったんじゃないかって。変に潔癖な所を出してあんな風になるぐらいなら、お兄ちゃんが求めているどのような行為でも付き合ってあげれば良かったんじゃないかって。実際、それまでも、ちょっといかがわしいこともやってきたわけですし。
 皆さんはどう思いますか?
 もしも、わたしが受け入れてあげていたら、お兄ちゃんは多分生きていたわけですし……。ええ、そうなんです。そういう心残りがあったから、本当はこっくりさんをした後のウィジャボードは捨てなければいけないルールなんですけど、どうしても、破ったり捨てたりできなくて――。
 だって、それ、お兄ちゃんとの最後の思い出の品物なんです。こっくりさんなんていません。いないはず、です。でも、そのウィジャボードを使った時だけは、お兄ちゃんと本当に話ができるんです。
 だから、もし今、皆さんの指が自然と動いているのだとしたら、そこにいるのは多分――。
 あぁ、ごめんなさい。話に夢中になってしまいました。もう、こっくりさんの儀式は終わりにしますか。聞きたいことは全部聞けましたか?
 え? 途中から勝手に動いてしまって止まらない?
 ええ、このウィジャボードはいつもそうなんです。最初の十五分ぐらいはきちんと答えてくれるんですが、途中からは同じ言葉を繰り返すばかりになってしまって……。なんて言っていますか? あぁ、いつもと同じ、ですね。わたしはずっと、わたしにはこの世に好きな人間なんてただの一人もいない、って言っているのに。
 はい、それでは、気を取り直して締めの儀式です。続けて言って下さい。『こっくりさん、こっくりさん、どうぞお戻り下さい』。『はい』に戻りませんか? 鳥居にも戻らない? 変ですね。繰り返す言葉が変わった?
 う、し、ろ。う、し、ろ。後ろ?
 え? なんだろう。
 こんなこと言い始めたこと一度もなかったんですけど、どうして今日に限って……。
 とにかく、十円玉から指を離さないで下さいね。わたしが落ち着いて話をすれば、お兄ちゃんもわかってくれるはずなんで……。

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[♀/連載]不浄奇談 [3-1-2.湯田真冬の話 破]

『不浄奇談』キャラクター紹介


 中でも、わたしが一番都合良く使ったのがこれ――そう、こっくりさんです。意外と友達作りに役に立ったりするんですよ、これ。みんなで怖い話をする、とかもそうですけどね。誰かと一緒にやると、吊り橋効果、っていうやつなんでしょうか。それだけで、グッと仲良くなれたりするんです。通常の方法ではなかなか不可能なほどに、人間関係の距離が一挙に縮まったりするんですよ。わたしなんて、こっくりさんに詳しいだけで、一時的に教室の中心に居座ることもできたりして。
 もちろん、本当の意味での悪用もできます。例えば、こっくりさんに聞くふりをして、まったくの嘘をやるっていうこともできるんです。本当はルールがあって、『一人でこっくりさんをやってはいけない』し、『ふざけ半分で行ってはいけない』と決まっているんですけど、子供って怖いですよね。わたしはこの二つのルールは平気で破っていました。だって、お兄ちゃんも明らかにこの二つのルールを破っていたのに、何の祟りも受けずに元気に生きていましたから。このルールは破っても平気なんだ、と子供心に理解していたんでしょうね。
「AちゃんはBくんが好き」「CちゃんはDちゃんと仲良くしているけど、本当は心の中では嫌っている」「Eちゃんはこの年でまだおねしょしている」なーんて愉快な嘘を、こっくりさんに聞くふりをして流したりして。普通に言えば信じてもらえないようなことでも、こっくりさんに聞いたふりをすれば、わたしが直接言うよりもずっと箔がつく。つまり、みんな、信じてくれるんですね。そのせいで、真偽は不明なのに、「おねしょ」「おねしょ」とからかわれて半分いじめられちゃう子までいたんですよ。あははは、笑っちゃいますよね。
 わたしはそれがとても嬉しかった。だって、そうでしょう? こっくりさんに聞いたふりをすれば、わたしが発した言葉が神様の言葉みたいになるんです。わたしはまるで百発百中の占い師でした。Eちゃんをいじめちゃおう、と思えば、みんなの注目を集めてからウィジャボードに十円玉を置いてこう言えばいいんです。『Eちゃんは今朝おねしょをしましたか?』。答えはもちろん、「はい」です。それだけで、周囲がわっと湧きます。「いいえ」は一度だって出してあげません。ふふふふ。
 あれ、引かれてしまいましたか。でも、一つだけ弁解しておくと、きっと、根も葉もない嘘ではなかったと思いますよ。Eちゃんこと南ちゃんはわたしの幼なじみでしたが、口うるさくてきつい性格のわりに、とっても怖がりな、かわいらしい所のある女の子でしたから。わたしがまだ南ちゃんと仲の良かった頃は、お兄ちゃんの真似をして、よく怖い話を聞かせてあげていました。嫌がることも多かったですけど、「えー、南ちゃん、お化け、怖いのお?」って挑発してあげれば、すぐに虚勢を張って聞いてくれるんです。南ちゃんのそういうわかりやすい所、わたしは大好きでした。
 だから、わたしはここもお兄ちゃんの真似をして、わざとトイレに行きづらくなるような怪談ばかりを耳元でいっぱい囁いてあげました。こっくりさんでは、南ちゃん自身がトイレで死ぬという予言から始まり、トイレにいるという怖い幽霊や妖怪の名前なども大量に吹き込んであげました。わたしの吹き込んだ情報は、南ちゃんの耳を通って南ちゃんの弱虫で幼稚な脳の中に根付き、そこで南ちゃんのかわいらしい恐怖を食べながら、同時に恐怖を煽る影となって大きく育ちました。その結果、当時の南ちゃんのおうちの物干し竿には、毎朝のように大きな染みのある布団が干されちゃっていたんです。そういう経緯を考えると、南ちゃんとわたしが完全に仲違いしてしまってからも、南ちゃんが一度も夜中に失敗しなかったとは思えないんですよね。
 まだ仲違いしていなかった当時、わたしは表面上はお友達として仲良くしていながら、心の中では南ちゃんのことをいつも笑っていました。お兄ちゃんの影響で、オカルト知識の面では早熟だったわたしにとって、怖がりで信じやすい南ちゃんは格好のオモチャでした。南ちゃんの家の物干し竿――そこに頻繁に干されてしまう失敗の証拠を眺め、わたしはいつも不思議な充足感を味わっていました。見ている方が恥ずかしくなるようなあの失敗をわたしがやらせてあげたんだ、というどこか誇らしいような思いでした。とうの昔に治っていたはずの南ちゃんのおねしょを再発させてあげたのは、確かにわたしと、わたしの吹き込んだ怪談達だったからです。わたしは南ちゃんに一人で抱え込むしかない、『おねしょ癖』という大きな悩みの種と恥ずべき秘密をプレゼントしてあげたのです。
 おねしょだけじゃありません。南ちゃんの反応が面白くて、わたしがついつい調子に乗ってやりすぎてしまった時のことでした。南ちゃんと来たら、怯えるあまり、学校でトイレに行くことができずに――四年生にもなって、教室のど真ん中でやってしまったんです。しかも、授業中、みんなの見ている前でした。わたしは一度も経験がありませんが、きっと、あれは死ぬほど恥ずかしい体験だったと思います。だって、みんなが見ている前で、自分の本当の年齢よりもずっと小さな子みたいに着ているものをびしょびしょに濡らしながら、教室の床に自分のおしっこで水たまりを作るんですよ? そんなの、わたしだったら耐えられません。でも、南ちゃんはそれをしました。
 南ちゃんは俯いていました。南ちゃんはいつも偉そうで生意気な子だったので、男子も容赦なくからかいました。男子を泣かしてしまうほどに口の達者な南ちゃんでしたが、その時ばかりは何も言えずに黙ってぐずぐず泣くばかり。
 わたしはその時、わたしをおもちゃにしていた頃のお兄ちゃんの気持ちが、はっきりとわかりました。実際、こんなに愉快なことはなかったのです。こっちの思惑通りに右往左往して、授業中も必死にもじもじくねくねして、最後にはみっともない失敗をして大恥をかいて。情けない姿をこれでもかと言うほどに演じて、わたしを面白がらせてくれるわけですから。コッケイ、っていうのはこのことを言うんですよね。きっと。
 わたしは保健委員でしたから、ぐずる南ちゃんを保健室まで連れて行ってあげました。それだけじゃありません。保健室でびしょびしょのおもらしパンツを脱いで、保健室の備品である真っ白な貸出用パンツに履き替える所まで、わたしは目撃しました。もちろん、わたしは表向きは心配している素振りをしつつ、お腹の中では大笑いです。ああいうパンツって、わたしは履いたことありませんけど、本当に恥ずかしいシロモノですよね。真っ白で飾り気がないだけじゃなくて、『○○小学校保健室』なんて大きめにマジックで書いてあったりして――もう、いかにも、おもらしした子専用、っていう感じなんです。学校でおもらしをしてしまった、学校の中でも選ばれた幼稚な子だけが履くことを許される不名誉な無地の木綿パンツ。それをよく見知ったお友達の南ちゃんがぐすぐす鼻を鳴らしながら身に着ける姿は、わたしにある種の感動を与えてくれました。きっと、これまでにもたくさんの、『トイレの劣等生』である先輩達が受け継いできたものなのでしょう。その不名誉な歴史を継ぐ最新の一人として、南ちゃんはこのパンツに選ばれたのです。
 教室に戻った南ちゃんを、男子の手荒な歓迎が迎えました。男子をやっつけるほどに気が強く、他の女子をかばって男子と喧嘩することも多かった南ちゃんでしたが、自分の恥を攻撃されると簡単に気丈さを失ってしまいました。庇いに入る女子も何人かいましたが、その子達も「ションベンもらしの仲間」として意地悪く囃し立てられてしまい、すごすごと引き下がるしかありません。この日、南ちゃんは四度ほど、男子にからかわれて惨めに泣かされてしまいました。
 帰り道、わたしは家も近かったので、いつも南ちゃんと一緒に帰っていました。その日も肩を並べて帰りました。南ちゃんは服もスカートも自分のおしっこで汚してしまったので、上下共に体操服です。手に提げているのは、おもらしした子に付き物の汚れた衣服を入れた袋――いわゆる『お土産袋』です。そんな目立つ格好をしているものだから、下校途中の子の視線は南ちゃんに集まります。同じ小学校の子なら、みぃんな、わかっちゃうんですよね。あぁ、この子、今日学校でおトイレ失敗しちゃったんだあ、って。くすくす、くすくす、という笑い声がどこからともなく聞こえてきます。わたしの耳に入っているということは、もちろん、南ちゃんの耳にも届いているでしょう。伏し目がちな南ちゃんの頬が、見る間に赤く染まります。言葉少なだった南ちゃんは、校門を出た辺りで呟くような声で言いました。弱気な、消え入りそうな声でした。
「おもらしした子と帰るの、いや、だよね? 恥ずかしい、よね?」
 わたしは南ちゃんがどういう答えを待っているのか察して、首を横に振りました。「ううん、恥ずかしくないよ。気にしないで」と応えました。南ちゃんはわずかな間を置いて、「ありがと」と短く言いました。
 わたしも神妙な顔ぐらいはしていたと思います。ほら、場面が場面ですから。それでも、やっぱり、わたしの胸の奥はその状況がおかしくておかしくて震えていました。小刻みに痙攣していました。この日の騒動は傑作でした。南ちゃんにとっては最低の体験だったでしょうが、わたしにとっては最高に面白い見世物だったのです。だって、本当は、ぜーんぶ、わたしが悪いんですから。南ちゃんの心の中を占領し、学校のトイレに行けないほどに恐怖でいっぱいにしたのは、わたしの意地悪な口から生まれたいわばわたしの子供達でした。わたしが南ちゃんの耳元でめいっぱい囁いてあげた怪談が、南ちゃんの恐怖を餌に立派に成長し、トイレに行きたい南ちゃんを通せんぼしたのです。通せんぼして、絶対にトイレに行かせてあげなかったのです。それなのに、責められるのも、恥ずかしい目に遭うのも、いじめられるのも、ぜーんぶ、南ちゃんなのです。わたしはその光景を心の中でたっぷりと楽しみながら、すぐ近くで見ていることが許されていたのです。教室で南ちゃんがそわそわしてトイレに行けない苦しみを味わっていた時、わたしは自分の子供達が意地悪くトイレに行かせてあげない姿を想像して、胸の膨らむ想いで観察していました。南ちゃんの椅子からみっともない水が流れ落ちて音を立て始めた時、我慢の限界を超えるまで南ちゃんをいじめ抜いてみせた子供達を手を叩いて誉めてあげたい気持ちでした。
 それにも関わらず、不思議なことに、南ちゃんは全ての元凶であるわたしにお礼まで言ってしまったのです――。わたしを信頼して、わずかに微笑んでくれる南ちゃん。夕映えを受けて儚く光るその顔は、実に美しいものでした。その美しい顔に向けて、わたしは心の中で言いました。やあい、おもらしぃ。明日もいじめられちゃえー。
 ……って、あれ、いつの間にか、お兄ちゃんの話じゃなくて、南ちゃんの話になってしまっていますね。まあ、無関係なわけではありませんから、せっかくなのでもう少しだけ続けさせて下さい。
 さて、南ちゃんの立場は、おもらし事件を発端に弱くなっていきました。南ちゃんはすっかりおとなしくなってしまい、クラスの中心辺りから、徐々にクラスの端っこの方へと追いやられていきました。
 クラスでの立場が弱くなればなるほど、南ちゃんはわたしに頼るようになりました。わたしは南ちゃんと何度となくこっくりさんをやりました。南ちゃんは四年生にもなって、夜、オムツがないと安心して眠ることができないという誰にも喋ってはいけないはずの内情までわたしに相談してくれました。わたしはこっくりさんで一緒に占ってあげました。愉快だったので、盛れるだけ盛って、二十歳になるまで治らないことにしてあげました。もうじきやってくる宿泊行事を心配していた南ちゃんは、真っ青になって震えていました。わたしは宿泊行事では、みんなにオムツがバレないよう南ちゃんに協力する約束をしてあげました。
 宿泊行事の当日のこと。わたしは約束通りに協力してあげる代わりに、南ちゃんが厳重にカムフラージュして持ち込んだオムツを、誰にも見つからないようにそっと隠してあげました。誰にも、南ちゃん自身にも見つけられないように。

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[♀/連載]不浄奇談 [3-1-1.湯田真冬の話 序]

『不浄奇談』キャラクター紹介


     3-1.湯田真冬の話

 ……あ、時間、来ちゃいました。
 どうします? 亜由美先輩、まだ戻ってませんけど。あ、始めちゃっていいですか。それじゃあ、やります。
 えーと、よろしくお願いします。湯田真冬です。裏方代表で来ました。わたしは裏方なので、先輩方やえりかさんみたいに、こう、声色の使い分けとか演技とか、そういう器用なことはできません。だから、普通にやってもつまらないと思って、今回はコレに頼ることにしました。
 じゃーん。
 あ、じゃーん、ってキャラじゃなかったです。ごめんなさい。
 いえ、まあ、『ばーん』でも、『じゃーん』でもいいんですけど。とにかく、コレです。知ってます? コレ。あ、そうです。こっくりさんのやつですね。『ウィジャ盤』とか『ウィジャボード』とか言われるやつの一種です。
 歴史を遡ると、海外で降霊術とかに使っていたものが日本に持ち込まれて変形したものらしいですけど――もしかしたら、本物を見たのは初めてかもしれませんねー。こんな具合で、あいうえおの五十音表と0~9までの数値、「はい」「いいえ」「男」「女」の文字が配置されています。あと、詳しくは知りませんが、真ん中にこんな具合に鳥居の絵が書いてあることが多いです。この上に十円玉を乗せたら、準備完了、完成です。
 わたしはこれ、ずっと前にお兄ちゃんに教えてもらったんですけど、怖い話でもよく出てくるので今回はみんなでこれをやったらどうかと思いまして。こうして、持参しました。
 十円玉に指を乗せる役にわたしが混ざると一気に嘘くさくなってしまうので、わたし以外の皆さんにやってもらいたいんですけど……。
 あ、そうだ。さっき、えりかさんの後ろに落ちていた花、二つありましたよね。あれ、何の花か、種類がわかる人ってこの中にいます? あ、琴美先輩、わかるんですか。うーん、さすが。物知りです。
 それじゃあ、正解を知っている琴美先輩以外の人は花の種類はわからない、と。実はわたしもなんとなくわかっています。それで正解を知らない皆さんに、このウィジャボードを使って正解を当ててもらいたいんですが……。
 悠莉先輩はオッケーですか。えりかさんも嫌だけどいける、と。三夏先輩、どうですか。こういうの、平気そうですけど。あ、やっぱり、全然平気です? それじゃあ、決定ですね。みんなでやりましょう。指をこの十円硬貨に当ててもらって。そうですそうです。無心に。無心に。
 それでは、始めます。わたしが先に言いますから、それと同じ台詞をみんなで言って下さい。それじゃあ、始めますよ。『こっくりさん、こっくりさん、どうぞおいでください。もしおいでになられましたら「はい」へお進みください』。
 ……あ、動いた。動きましたね。『はい』に行きましたね。これで儀式は成立しました。あ、何があっても、指を十円玉から離さないで下さい。大変なことになるらしいので。あ、ちょっと、えりかさん、三夏先輩、もぞもぞ動くのもやめにして下さい。えりかさんは……まあ、まだトイレに行ってないんで、ちょっと仕方ないところありますけど。三夏先輩はもうトイレに行った後なんですから、落ち着かないのはわかりますけど、じっとしていて下さい。
 こほん。それでは、質問を始めます。さっきと同じように、わたしが先に質問を言います。皆さんは続けて言って下さい。『そこに二種類の花があります。黄色い方の花の種類は何ですか』。
 うん、いいです。動いていますね。き、ん、も、く、せ、い。キンモクセイ。わたしの思ったのと一緒ですけど、琴美先輩、合ってます? はい、正解みたいです。正解を知らないはずの皆さんが正解を出せるはずないのに、こうして正解が出て来たということは……。ええ、良い具合です。良い具合に、儀式が成立していますね。
 それでは、次に行く前に一度リセットが必要なので、わたしと同じように言って下さい。『鳥居の位置までお戻りください』。……うん、十円玉が鳥居に戻りましたね。一つ質問をする度に、これを繰り返す必要があります。どんな儀式でも、こういう形式というか順序立った手続きは非常に大切です。
 はい、それじゃあ、次にいきます。『黒い方の花の種類は何ですか』。
 く、ろ、ゆ、り。クロユリ。琴美先輩、どうでしょう……あぁ、合っている、と。
 花の種類はキンモクセイとクロユリ。キンモクセイはともかく、クロユリは平地には見られない高山植物なのに、どうして学校に……。ああ、そういえば、わたし、さっき花を一目見た時から思っていたんですよ。これ、もしかしたら、何かのメッセージなのかな、って。ほら、花って花言葉があるじゃないですか。
 クロユリの花言葉は、確か『呪い』や『復讐』。
 キンモクセイは基本的には良い意味の花言葉が多いですけど、『隠世(かくりよ)』――要するに、死後の世界、っていうネガティブな花言葉もあります。それに、どちらも、なんというか……香り的に、別のあるものを想像させる、というか……。うーん。まあ、あんまり口には出しにくいんで、明言は避けますけど。
 え、あ、はい、わかりました。次に行きましょう。
 ええと、それじゃあ、次の質問は――『亜由美先輩がなかなか戻って来ませんけど、一体どこに行ったんですか?』
 と、い、れ。トイレ、ですか。まあ、それはそうでしょうけど。
『亜由美先輩がなかなか戻って来ない理由はなんですか?』
 も、ど、れ、な、い。戻れない?
『まさか、トイレに間に合わなかったとか?』
 いいえ。
『戻れない理由は何でしょうか?』
 み、ち、が、な、い。みちがない。道がない?
 ちょっと要領を得ません。わかりませんね。話題を変えましょうか。
 他に質問は……あ、そうですね。わたしばかりが質問していても、つまらないですよね。それでは、ここから先は皆さんにお任せします。自分を好きな人のことでも、自分の好きな人のことでも、ご自由に質問いただいて結構です。あ、でも、質問は一人ずつ、順番にして下さい。
 ……ふふ。あぁ、それにしても、こうしていると、思い出してしまいます。お兄ちゃんと最後にこっくりさんをしていた時のことを。あ、琴美先輩、興味あります? それじゃあ、ちょっとだけ話しましょうか――。皆さんはBGMと思って聞き流していて下さい。
 最後にこっくりさんをした時、お兄ちゃんはわたしの好きな人のことを質問したりして、意地悪をしました。わたしは好きな人なんていなかったので「いない」と出ました。お兄ちゃんはわたしを好きな人のことも質問しました。これが意外にもいて、その人の名前が出ました。わたしは特別好きではなかったので、どうでも良かったですけど。
 それまでにも、わたしはお兄ちゃんと色々なことをして遊びました。二人きりの兄妹でしたから、仲はまあ普通に良かったです。お兄ちゃんはわたしより二つ年上でしたから、色々なことに詳しくて、特にこういう……オカルトって言うんでしょうか。どことなくじめっとした、薄暗い、人の恐怖を煽るような神秘の世界について強い興味を抱いていたみたいで、わたしに教えてくれたものにはそういう類の知識が多かったです。
 幼い頃、わたしはそういうお兄ちゃんの話が怖くてたまらず、好きではありませんでした。幼稚園ぐらいの頃って、特に怖いエピソードなんてなくたって、天井の木目が不気味な人間の顔に見えたり、夜中の窓ガラスに映る像が無性に恐ろしくてたまらなくなってしまうようなところがあるじゃないですか。なのに、お兄ちゃんは、そういう繊細な年齢のわたしに対して、お化けや幽霊、妖怪や都市伝説みたいな、暗闇に潜んでいるモノについて毎日のようにまことしやかに聞かせるんです。お兄ちゃんによる怖い話が行われるのは決まって、太陽が沈んで、辺りが暗くなってからでした。そうですね、ちょうど今ぐらいの時間が多かったと思います。わたしが泣いて嫌がっても、お兄ちゃんは許してくれませんでした。だから、その頃、わたしは夜が来るのが怖くて怖くて仕方なかった。ただでさえ、夜闇は暗くて恐ろしいのに、その時間が来るとお兄ちゃんの怖い話が始まってしまう――。恥ずかしい話ですが、わたしはそれらの怖い話のせいで、夜、寝る前にトイレに行けずに何度も布団の中で失敗してしまいました。幼稚園児ぐらいになると、もう、ちゃんと恥の観念は身についています。だから、わたしはそっとしておいて欲しいと思って小さくなっているのに、お兄ちゃんは嬉しそうにわたしの失敗を大声でからかうのです。こんなの、ひどいですよね。ひどいお兄ちゃんだと思いますよね?
 ……え? あっ、いやいやいや、違いますよ。わたしは『今でも夜、たまにおねしょしている』犯人じゃありませんってば。うわあ、ちょっと、心外です。そんな風に思われていたんですか。おねしょなんて、子供の頃だけの話です。今はもう中学生ですから。この中にいる本当にしちゃっている人には申し訳ありませんけど、わたしは長年、やっていません。本当ですよ?
 こほん。ええと、それでですね。こっくりさんもお兄ちゃんが教えてくれたんです。遊び方も、やってはいけないルールも、上手く利用する方法も、全部です。
 あ、利用する方法ですか。この『不浄奇談』を始める前に、亜由美先輩がやった『秘密』を集める手法が良い例ですけど――こういうオカルト的なことって、なんというか、個人差が大きいんですよね。全然怖がらない人も確かにいるんですけど、怖がる人は本当に極端に怖がったりするんです。亜由美先輩はそういう怖がる人の心理を悪用して、この中の誰かから、普通の方法ではなかなか聞き出すことができないとっても恥ずかしい秘密……くすっ、『おねしょの秘密』を引き出したわけです。
 それと同じで、オカルトを悪用することによって、通常の方法ではなかなか実現できない事柄を、たやすく実現できちゃったりすることがあるんです。
 最初にお兄ちゃんがこっくりさんを教えてくれた時。わたしはまだ小学校の一年生でした。
 お兄ちゃんはまた悪い癖を出して、わたしを怖がらせようと思ったのでしょう。信じられないことに、自分達が死ぬ場所について質問したんです。怖い物知らずにもほどがありますよね。
 結果、お兄ちゃんは『どうろ』、わたしは『ふじょう』と出ました。
 次に死因について質問しました。お兄ちゃんは『くるま』、わたしは『ふじょう』でした。
 お兄ちゃんは教えてくれました。『ふじょう』というのが『不浄』であり、要するにトイレのことを指すのだと。わたしは自分がトイレで死ぬと聞き、すぐにお兄ちゃんから今まで聞かされてきたトイレの怖い話のことをイメージしました。ああいう恐ろしいモノにどこかで出くわしてしまって、取り殺されてしまうのではないか――と。想像するだけで、すぐにトイレに行くのが怖くなってしまいました。……ええ、あんまり言いたくはありませんが、その通りです。わたしはこの話のせいで、また何度か……。お兄ちゃんはやはり嬉しそうに、わたしをからかっていました。からかわれて、わたしは悔し涙を流しました。
 お兄ちゃんは変でした。最初はそうでもなかったのですが、ある頃から、明らかにわたしがトイレに行きにくくなるように誘導している節が見られました。この年になってようやくわかってきましたが、多分、お兄ちゃんにはそういう趣味があったのです。ある種のヘンタイ、だったのです。つくづく、ひどい話です。
 そのようなヘンタイ的趣味を持つ兄の嫌がらせに鍛えられ、二年生に上がった辺りから、わたしはようやく知恵をつけ出しました。お兄ちゃんの得意とする手法を理解し、お兄ちゃんのオカルト話を真に受けないようになりました。これはコツを掴めば、簡単なことでした。一度、距離を置いて冷静に考えてみるだけ――それだけで、世の中にはびこる怪談の大半は、現実には到底起きそうもないことだと気付くことができます。三年生や四年生辺りにまでなると、見様見真似で、わたしはお兄ちゃんから仕入れたオカルト知識を自分の生活に役立てることもできるようになったのです。

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[♀/連載]不浄奇談 [2-2.休憩 真崎えりか]

『不浄奇談』キャラクター紹介


     2-2.休憩 真崎えりか

 続きの言葉が発せられるのを待つ。
 続きの言葉はなかなか発せられず、そのまま、話者の悠莉がまぶたを伏せる。これで終わり、というサインと理解し、真崎えりかが口を開こうとした瞬間――。
 がらんがらんがらん。
「ひっ――」
 階下、それほど遠くない場所から、大音響が鳴り響いた。びくっ、と反射的に身が跳ねる。金属製のものが激しく転がるような、無音に近い日暮れ時の学校で発生するにしては、あまりにも物凄まじい音。音は残響を残し、ゆっくりと虚空へ吸い込まれ、やがて消えた。
 突然のことに何も考えられず、全身を硬直させて、ただ次に続く何かを待つ。
 しかし、音に続きはない。あるのは、じっとりと湿気をはらんだまとわりつくような薄闇と、耳鳴りのするような静寂だけ。
 ごくり、と唾をを呑み込む。唇が、わななく。
「あ、あの。今の、何の音、ですか?」どうにか発することができた自分の声に、えりかは驚いた。みっともないほどに胸の奥の震えが混入した、頼りない声。
「さ、さあ、なんだろ。バケツかなにかが転がった――んじゃない?」
「この棟には、私達以外、誰もいないはずなのに?」
 不安や怯え、好奇心の入り混じった各人の視線が、自然とえりかに集まる。言外に、階段に一番近い位置に座るえりかに『確認しろ』と言っていた。
 気は進まない。しかし、先輩達の指示とあれば断れない。えりかは立ち上がった。そうして、つい先ほどまで背にしていた階下をそっと覗き込む。踊り場の電灯も、廊下の電灯も、まだ点いてはいない。そのせいで判然としないものの、薄く埃の積もった階段と闇の中に浮かぶ光沢のある廊下がうっすらと窺えるばかりで、これと言って目につくものは何もない。
 振り返り、何もないことを示すために首を横に振ってみせる。こぼれる安堵の吐息。えりかから見て一番近い位置にいる三夏と琴美の顔は、しかし、それでも明らかに強張っていた。えりかは少しだけ意外に思う。先輩達も、全然、平気ってわけじゃないんだ――。
「部の誰かが、私達を驚かせようとしてやったとは考えられない?」硬い表情のまま、三夏が推測する。努めて冷静に推測してみせることで、場の空気を、ひいては自分の怯えを鎮めようとしている――。えりかにはそのように見受けられた。「ほら、裏方の子とか。今は別の棟にいるけど、合宿には来てるんだし」
「そ、そうですねえ。それもあるかもしれませんよね……」でも、可能性は低い。心の中ではそう感じつつも、えりかは三夏に同調した。意見そのものというよりも、ただならぬ雰囲気の漂う場と自分の気持ちを一旦鎮めたい、という三夏の思いに同意した形だった。
「えー。そうかなあ」遠慮なく異を唱えたのは、亜由美だった。「裏方の子達、下級生が多いじゃん。性格的にもやりそうにない子ばっかりじゃない? やるかなあ。そんなこと」
「先輩相手でも、亜由美ならやりそう」
「しないよー」
「するって」
 上級生四人の中でも、比較的平気そうにしている亜由美と悠莉の間で罪のないやり取りが続き、脱線していく中、残りのメンバーの間で話は続く。
「裏方の子達がやらないなら、じゃあ、さっきの音は……」
「幽霊――」えりかにとっては唯一の同学年である湯田が、ひどく真剣な面持ちで述べる。「かも、しれませんね」
「幽霊なんていない」三夏がどこか頑なな口調で返す。「お化けとか幽霊とかって、中学生にもなって馬鹿みたい」
「でも、それなら、これは……」
 知らないうちに自分の背後に落ちていた二輪の花を視線で指し示して、えりかは声をひそめる。悠莉の話の最後に、不意に出現した花。種類は異なり、一輪は黄色、一輪は黒色。黄色の花は木に咲く花のようで、枝葉も付随した形をしている。黒い花の方は茎がほとんどなく、花の首に当たる所で切り取られているようだった。
「この中の誰かが置いた以外、考えられないでしょ。悪戯にしても悪質だけど」三夏が苛立たしそうに周囲を見回す。その疑いの目は、とりわけ、いまだ緊張感の薄いやり取りを続けていた亜由美と悠莉に注がれている。「正直に言ってくれる。これはどっちが置いたの?」
「えー、私ら限定? ひどくない? いや、でも、ほんと、知らないよ。さっきまでなかったよね。どうせ、亜由美でしょ?」面倒な疑いをかけられるのは勘弁とばかりに、悠莉が言う。
 それを聞いて、亜由美はきょとん、とした表情を浮かべた。それから、心底驚いたように声を上げる。
「えっ、ちょ、マジで、悠莉じゃないの? こんなの、あたしも知らないよ? 誰かが置いたとしても、気付きそうなもんだけど、気付かなかったし」亜由美が反論しつつ、他の面々を見回す。「本当に誰も知らないの?  ……でも、だとすると、ヤバくない? てことはさ」
 亜由美は語尾を濁し、探るような視線を周囲に投げた。はっきりと、口にはしない。でも、言いたいことは明確に伝わってくる。
 てことはさ、マジで”いる”んじゃないの、この辺――。
 無言のうちに、全員が周囲を見回す。自分達の他に、誰もいないことを確認する。えりかも同様にする。しかし、何度見ても、何もないし、誰もいない。不気味に静まり返った踊り場が、いかにも背後に何かを隠していそうな佇まいでそこにあるだけだ。メンバーの中には半ば冗談めかして同調している人間もいたが、それでも、その表情は若干ひきつっている。
 数分後、結局、何も手がかりらしいものを見つけられないまま、全員が元の位置に戻る。カメラで映像は撮影しているのだからまた終わってから確認してみよう、と琴美が言い出し、その意見が通った結果だった。
 定位置に戻ってからも、えりかの気は晴れなかった。なんだか薄気味が悪い。それがえりかの歯に衣着せない感想だった。唯一、自分だけが階段を背にしているのが、いっそう心細く感じられる。階下の音の件もそうだけれども、何故、よりにもよって、自分の後ろに変な物が落ちていたりするのか。座った時には、確かになかったはずなのに。
 えりかは、幽霊なんていない、と固く信じ込もうとする。幽霊なんて信じるのは、小学生までだ。自分はもう中学一年生なのだから、信じない。
 だって、いたら、怖い。怖くて、困る。だから、幽霊なんていない。そうでなければならない。だけど、と続きを考えてしまう。だけど、ひょっとしたら、悠莉先輩の話にあった演劇部の霊を引き寄せてしまう体質の人間というのが、本当にこの中に混ざっているんじゃないか――。そして、幽霊と同じ名前の自分が、幽霊の標的になってしまっているんじゃないか。そんな風に思えてくる。
 えりかは、話に出て来たリカちゃんのことを思い返す。二週間の便秘の末、トイレ前の廊下で大恥をかいたリカちゃん。自分と同じ名前を持った、過去にこの中学校に通っていた女の子。
 不安な気持ちに応えるように、周囲には聞こえないぐらいの小さな音で、お腹がきゅるる、と鳴る。誰にも気付かれてはいない。それでも、薄闇の中、えりかの頬は朱に染まった。今現在、自分が置かれている状況を鑑みると、まるで無関係の話とは言い切れない。
 『実は慢性的に便秘気味です……☆』。自分がノート片に記した『誰にも言えない秘密』の文言が脳裏に蘇る。記憶を辿ってみると、えりか自身も、ここ二週間以上、お腹の中に溜まったモノを出せていなかった。そして、二週間越しのそれが今、すでに出口付近まで来ている点まで符合している。嫌な予感が、した。
「で、一応、休憩時間なんだけど。誰か、トイレ、行く?」
 悠莉が心なしか、神妙な顔で呼びかけてくる。
 今のうちにトイレに立っておかなければならない。そう思い立って、えりかは手を挙げようとする。でも、瞬間、背筋にひやっとした冷気が走って、尻込みしてしまう。自分と同じ名前の幽霊。階下のけたたましい音。奇妙な二輪の花。あんなの、自分を怖がらせるためだけにこしらえた、ただの作り話に決まっている。そう信じたいけれど、不吉な符号が頭の片隅にこびりついて、踊り場にいる皆から離れ、自分一人で階下に向かうことにたまらない心細さを感じてしまう。向かわなければならない踊り場の下の階段はほの暗く、夕闇が沈殿したように溜まっている。この先にある誰もいない暗いトイレの個室で、ほぼ陽が落ちた時間帯の今、たった一人、『大きい方』を済ませられるだけの度胸が自分にあるとは思えない。だけど、でも――。
 えりかが逡巡しているうちに、すう、と別の所で手が挙がった。見ると、それは亜由美だった。
「それじゃあ、満を持して」よくわからない謎の溜めを作って、亜由美がキメ顔で言う。「あたし、行ってきます。――トイレに」
「トイレに、じゃねーよ。何の言い方。別に満を持してもないし。二人目だし」
 悠莉のツッコミ風の指摘に、場に薄い笑いが広がる。えりかだけが笑えなかった。
 本当は自分が行きたかったのだ。次の話の順番は、真冬、そして次がえりかになる。その次は琴美と三夏。自分の話の直前と、直後はトイレに立つことはできないルールだから、今を逃すと琴美の話の直後までトイレには行けなくなってしまう。
 我慢できる? と自分のお腹に問う。お腹がきゅるるる、と子犬みたいなかよわい声で鳴く。無理かも、と言っているように聞こえる。
「そんじゃ、気合入れて行ってくるー」
 亜由美が身を軽くのけ反らせ、中年男性がよくやる仕草で腰を伸ばす。階下へと、一歩目を踏み出す。止めるなら、今しかない。
「あっ、あのっ」えりかは慌てて、制止の声を上げた。みんなの視線が一斉に集まる。望まぬ注目に、えりかはへどもどしてしまう。年上の先輩の前で、こんなことは言いにくい。だけど、言わないと。「や、私も、そのぉ、実は行きたいんですけどぉ……」
「えー」亜由美が露骨に不満そうな声を上げる。「これって、二人以上、手を挙げた場合のルールはどうなってるんだっけ?」
「早い者勝ち、だった気がするけど」
 琴美が答える。えりかは内心、顔をしかめる。いつも眼鏡をかけている琴美先輩は、いつも眼鏡をかけているだけあって、頭が良い。記憶力も良い。こういう時には発言力がある。頼りにもなる。でも、たまに感じる。この先輩は冷たいところがある、と。下級生で、後輩で、それなりに仲良くはしているのだから――こういう時、助けてくれたって、いいのに。
「そっかー」亜由美があっけらかんと言う。「それじゃあ、あたしの勝ちってことで。OK?」
「あ、ああ、えっと」えりかは口ごもった。でも、言わなきゃ。言わなきゃ。「でも、あの、いやいやいや、ちょっと」
「えー、なになに」亜由美が独特の薄ら笑いを浮かべる。人が困っているのを見て喜ぶような、底意地の悪い粘着質な微笑み。「あっれえ? ひょっとしてえ。えりかちゃん、まさかぁ、中学生になってまで我慢できないとかぁ?」
「……! いえ、そんな。そんなことはぁ、ないんですけどぉ」
「それじゃあ、いいよね」
「あ、でも……」
「我慢、できないの?」
「我慢はっ……でき、ます」
「だよね。だったら、あたし、先輩。えりかちゃんは後輩。年長者を敬うべきだし、演劇部は基本先輩ファースト。でしょ?」
「それは、そうです、けど」
 亜由美に押し切られそうになって、お腹がぐるぐるぐる、と抗議するように鳴る。ここで引いたら、ダメ。我慢できなくなっちゃう。そう訴えているように感じる。お腹の中に隠したグロテスクな形状をした便塊が、ぐいぐいと出口の辺りを押している気配がする。でも、でも――。

「はい、行ってきまーす」
 階段を下りていく亜由美の後ろ姿を見送りながら、えりかは漠然と思う。要領が良いってどういうことなんだろう、と。
 要領が良い、とやっかみ半分に他人から言われることも多い。でも、どうなんだろう。要領が良いって、結局、どういうことなんだろう。
 自分に関して言えば、何事も適当に受け流すのが上手いだけだ。厄介ごとを避けるのが得意なだけ。争いごとを遠ざける――そういう、演技が得意なだけ。
「えりかちゃん、トイレ、行きたかったんでしょ? 大丈夫ぅ?」いつもと同じ調子に戻った悠莉が、ヘラヘラしながら覗き込んでくる。
 えりかは顔を上げた。そして、にっこりと笑う。いつもやっているように、自分の内心をおくびにも出さずに。
「はい、全然大丈夫です。それほどでもないので。悠莉先輩の話、ちょっと怖かったんで、暗くならないうちに済ませておきたいかなあ、って思っただけだったんです」
 自分自身が用意した脚本を自分自身で演じる最中、要求を押し殺されたお腹が、きゅるるる、と切なげに鳴いた。
 演技はどんどん上手くなる。でも、自分の希望を通すのは、いつまで経っても上手くはならない。

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