蒼い月の夜に【体験版】

蒼い月の夜に 

ブルームズベリーの古城 悪魔巣食いたり
ブルームズベリーの悪魔 27の年を待ちいたり
ブルームズベリーの悪魔 蒼き月夜に来たるなり
ブルームズベリーの悪魔 小さき男子狙いけり

悪魔が姿は誰(たれ)も知らぬ
悪魔が為すは誰も知らぬ
悪魔に出会いしは誰一人として帰らざりき
然れど悪魔の恐ろしさ知らぬものあらざりき

ブルームズベリーの悪魔 恐れたりしは
青き月夜は出歩かぬがよし
ブルームズベリーの悪魔 恐れたりしは
蒼き月夜を夢見の内に過ごすがよし

悪魔は必ず来たるなり
ブルームズベリーの古城より
悪魔は必ず来たるなり
蒼き望月輝ける夜に


満月には不思議な力がある。潮の満ち引きだけではなく、月光と共に降り注ぐ強い月の力は動物や植物に活を与え、神経質な人々の精神を変容させ、時に特別な夢を人にみさせるものである。獣人が満月を称えて祝祭を催し、占星術師や魔術師、錬金術師も月齢には細心の注意を払うのはその強い力の故に他ならない。
ルイもまた今夜は眼が冴えていた。窓から薄青い月の光が差し込み、細かな埃がその中を泳いでいた。だが、彼が寝付かれないのは単に月の魔力に当てられたからだけではなかった。少年はベッドの中で手の中にある小さな二つのものを見つめていた。それは、古びたコルクの耳栓だった。彼は窓の外を眺めた。あの夜と同じような、落ちてきそうなほど大きな青い満月があった。
それは、2月前の満月の夜のことだった。不思議に気が立って、妙に寝付かれない夜で、ベッドの中でとりとめのない空想に耽っていたが、いっかな眠気はやってこなかった。仕方がないから読みかけていた本を読み進めようかと身を起こすと、ふいに、窓の外に視線が奪われた。外に出てみようという衝動にかられたのである。月がとっても青いから、理由はただそれだけだった。
空気の澄んだ素敵な夜だった。遠近で虫が何かを囁き合い、池の方ではカエルの合唱し、時折、山からミミズクの鳴く声が伝わってきた。いくつもの音が折り重なり、騒々しいはずなのに、それらは夜の静けさと混じり合い、少しもうるさくはなかった。もしも、これらの音響が無くなれば、そちらの方がよっぽど耳障りに感じるのではないかと思われた。
家々の灯りは消え、日中では人の行き交う本通りにさえ誰の姿も見えない。ルイはまるで自分がこの天の下に残された最後の一人であるような気がした。それは恐ろしくもあり、愉しい空想だった。ルイは村をぐるりと回ってみようと思った。青い月の光が、道を照らしてくれていた。
池も、畑も、井戸も、牧舎も、花壇も、いつも遊んでいるどこもかしこも太陽の下にある時とは違っていた。形は同じなのに、その表情は全く異なっているように見えたのである。まるで、大人達のようだとルイは感じた。大人達はどうしてか、大人同士で付き合う時と、自分達と付き合う時で違う顔を取り繕うのである。そしてそれらは別々でありながらどちらも本当なのである。
村をおおよそ一周し、そろそろ疲れて来たころだった。
どこからともなく、笛の音が聞こえてきた。美しい、けれど消え入りそうな幽き音色は、北の山から風に乗って下りてくるようだった。
思わずルイは、耳を澄ませてその音に聞き入っていた。
(綺麗な音だ。誰が吹いているのだろうか?)
老ジャニスが慰みに吹く笛はもっと重々しくて厳めしい、春先にやってくる旅芸人の笛吹きのそれはもっと陽気だ。
少年の耳にしたことのある、どんな笛とも違った音色だった。
透明でなよやかで、嫋々と優美な余韻の続く魅惑の調べを奏でていた。
半ば無意識に、ルイはその場に立ち尽くしていた。
そんな折、誰かが近づく足音を聞いた。反射的に暗がりに身を潜めたのは、夜歩きが見つかると叱られると思ったからだった。だが、やってきたのは少年を叱る大人ではなかった。1つ年上の友人のアンドレイであった。ルイは驚き目を見張ったが、すぐに相好崩して彼に駆け寄った。偶然の共犯者を見つけた嬉しさを覚えたのである。
「や、やあ。アンドレイ。散歩かい? き、奇遇だねえ、僕も――」
声をかけたが、年嵩の少年は返事一つしないで、ふらふらと歩いていく。
気弱なルイは何か気分を害するようなことをしでかしたのだろうかと不安になって、その後を追い、付き添うように横に並んだ。
「ね、ねえ……ぼ、僕何か、また、ヘマをしたのかな? だったら、謝るよ。ごめん」
へつらうような卑屈な笑みは、日ごろの習いだ。ブラン家の者なのだから、そんな相手の機嫌を窺うような笑い方はやめろと、父親から何度も注意されていたが、こうするのが一番楽だとでもいうように、自然と口や目元がその形をとってしまうのである。
「ねえ、ねえってば。アンドレイ、どうして、さっきから何も答えてくれないんだい?」
謝罪にも質問にも、アンドレイは答えなかった。いつもなら、ルイにはよく呑み込めない理屈を並べるか、うるさい自分で考えろ、と賢明に片づけてしまうのだが、それすらもなかった。
ルイはどうしていいかわからなくなって、半端に伸ばした腕をこまねいて離れていく背中を眺めていた。
しかし、そもそも、アンドレイはこんな夜中に何をしているのだろう?
ルイと同じく、漫ろ心に従って、という風ではなかった。さっき覗き込んだ表情はぼんやりとしていて、いつものふてぶてしさがまるで削げ落ちていた。
もしかしたら、ただ寝ぼけているだけなのかもしれない。
そうだとすると、心配になった。どこかで転んで怪我をするかもしれない。
だけれど、無理に引き留めようとすれば、いつものように、いい加減にしろという意味の拳骨が飛んで来やしないだろうか?
ルイはやや逡巡した挙句、アンドレイを後ろからつけていくことにした。ばれないように距離を取って、けれど、何か危ないことあればいつでも助けにいけるように。
アンドレイはぐるぐる遊びをした時みたいな覚束ない足取りで北の山の方へ歩いて行った。林の中の緩やかな山道を登っていくにつれて、だんだんと、笛の音がはっきりと聞こえてくるようになっていた。
もしかしてアンドレイはこの笛の音に引き寄せられているのではないだろうか。ルイはそんな風に考え始めていた。まるで魔法みたいだな、と思った。吹き手がどんなやつか見てやろうとも思った。少年は不意に始まった小さな冒険に、わくわくしていたのであった。好奇心がもたらす興奮が無ければ、途中で引き返していたことだろう。
夜の山は暗く、ナラやヒイラギの生い茂る小径にはどんな怪物が潜んでいても不思議はなかったし、ため息を思わせるミミズクの鳴き声は、恐怖を煽り立てる十分な効果があった。
やがてアンドレイは藪を抜け、村を一望できる小高い丘の上にたどり着いていた。笛の音はいよいよはっきりとなっていた。
ルイは藪の中に身を潜め、そっと様子を窺った。丘は拓かれていて、満月が投げる青白い光のおかげで見通しは悪くなかった。
そこには先客がいた。後ろを向いていたので真っ黒く背の高いシルエットだけが見えた。そいつは、月光を浴びながら、白く輝く横笛を吹きならしていた。アンドレイはその黒い笛手の方へとふらふら歩み寄っていった。
と、不意にそいつは笛を吹くのをやめ、ゆっくりとアンドレイに向き直った。
とても背の高い女だった。全体が黒く見えたのは、足元まである漆黒のマントを羽織っているためだった。顔立ちは暗さのせいでルイのいるところからはわからなかったが、豊かに波打つ銀色の髪は月光を照り返し、明滅するように輝いていた。
ルイは青い月夜の夜に現れる悪魔の話を思い出した。山の向こうの、ブルームズベリーの古城に住まうという悪魔だ。だがまだこの時は、そんなまさか、という気持ちが勝っていた。
女はアンドレイに向かって何かを言っていた。アンドレイは何も言わずに、ただ立ち尽くしていた。女が小さく、妖しい笑い声を立てた。そうして、両腕を横に伸ばしてマントを広げた。艶やかな光沢を放つ、血のように赤い裏地が見えた。まるで、黒い大きな生き物が、口を開いたようだった。マントの下は夜会にでも赴くような、赤と黒のドレスだった。
ふら……と、アンドレイは吸い寄せられるように女の元へさらに近づいた。
女はアンドレイが目の前で立ち止まった次の瞬間、身をかがめハグするみたいに、彼の身体をマントで包み込んだ。
丁度、黒い布地の上に二人の首がのっかっているような状態になった。
女はアンドレイに口づけをしているようだった。マントの下で女の手が少年の身体を弄っているのか、黒い布は奇妙な躍動を見せていた。
ルイは目の前の光景に釘付けになっていた。男と女の睦言なんて何一つ知らないのに、その淫らさに当てられたように劣情を催していた。
やがて、二人の口から洩れる熱っぽい吐息まで聞こえてきたころ、女は何かを囁くように、アンドレイの横に頭をずらし――その首元に噛みついた。
しばしその状態が続いた後、女は顔を離した。口の端から顎にかけて赤い筋が流れていた。血だ。噛みついた時に血を啜ったのだ。
吸血鬼、という言葉がルイの頭をよぎった。
あの女の人は吸血鬼だったんだ――。
唖然とするルイの見ている前で、女はアンドレイの頭までマントで覆い尽くした。
黒い布地が不可解な動きを開始した。波打ち、うねり、蠢いていた。まるでマントの下で何十という蛇が這いずり回っているような、2本の手では到底できない動きだった。そして内側から聞こえてくる、苦しそうな喘ぎ。
一体、何が起こっているんだろうか。アンドレイは、何をされているんだろうか。
想像もできなかった。想像することさえ、おぞましいように感じられた。
女はアンドレイをマントの下に捕らえたまま、ゆっくりと歩き始めた。足元の動きが見えないために、あたかも地面の上を滑っているように見えた。どこかへ立ち去ろうとしているのかと思ったが、そうではなかった。女はルイの隠れている茂みの方へ、真っすぐに近づいて来ていた。
ルイは走ってその場を離れようとしたが、恐怖の糸が足に絡みつき、3歩と行かないうちに前にのめって転んでしまった。
痛みと衝撃が体を打った。立ち上がり様に振り向くと、吸血鬼はすぐ背後に迫っていた。泡を喰って繁みから飛び出したために、二人の間を遮るものは何もない。
「ひいっ……」
腰を抜かしたルイは、尻もちをついたような姿勢で無様に後ずさった。
「あらあら、おびえちゃって……可愛い」
女はバラのような唇に指を当ててくすくすと笑った。
その小さな仕草が、少年の胸を高鳴らせた。
間近で見た女は常軌を逸した美しさを有していた。少年がどんな一生を送ろうとも、今目の前にいる吸血鬼より美しい女に出会うことなど、ないであろうと思われた。
年齢はわからない。20代のような瑞々しさと、30代の艶めかしさが同居しているようだった。シミやそばかすの一つとしてない肌は雪花石膏(アラバスタア)のように白く、ユリの花に似た高い襟に流れる豊かな銀髪はまるで本物の銀糸の如くに輝いていた。形の整った瑞々しい唇、すっきりと通った鼻梁、貴族的な優雅な稜線を描く輪郭、緩やかなアーチを描く眉……すべてが調和した秀麗な顔立ちを、濃い化粧が彩り、この上なく蠱惑的な絶対の美貌が完成されていた。
なかんずく少年の眼を奪ったのは、シャドウに彩られた切れ長の眼だった。虎眼石のような金色の瞳は、自ずから輝いているみたいに眩く、冷たい威厳を帯びていて、見つめられているとその中に落ちてしまいそうなくらいに深かった。
「おほほほ……隠れてのぞき見するなんて、いけない坊やねえ……」
「や、やだ……食べないで……」
ルイはじたじたと地面を足で掻いた。アンドレイのように、自分も血を吸われてしまうのだと思うと、足がすくんで立ち上がることも出来なかった。
「食べる? それも、いいかもねえ……坊やはとってもおいしそうだから……」
吸血鬼がぺろりと唇を舐める。その仕草は肉食動物を思わせた。
恐怖がルイの背筋を走り抜けた。
「やだ……やだよ、おいしくないったら……」
「おほほ……怯えなくても何もしないわ。今夜はもう、十分だから……私はディアナ・シエラ・ブルームズベリー……」
ブルームズベリーの悪魔――ルイの脳裏にあの昔話と「早く寝ないとブルームズベリーの悪魔がお前を攫ってしまうよ」という脅かし文句が蘇る。躾けための嘘っぱちだと思っていたのに――。
「ディアナと呼んで頂戴。それで、坊やのお名前は?」
竪琴のように優雅な声音が紡ぐ言葉は、音楽的な心地よい響きを秘め、絹のようにするりと少年の意識に忍び込んでいた。恐るべき一幕にあるにも関わらず、ルイはほとんど反射的に答えてしまう。
「え……る、ルイ……です」
「そう。ルイ。素敵なお名前ねぇ……」
ディアナは満足そうに目を細めると、マントをわずかに開いた。
中に捕らわれた少年の頭がころりと外に露出した。
「ねえ、あなた、この子のお友達かしら?」
「あ、アンドレイ……」
異様な友の様子にルイは二の句を接げずに硬直した。
アンドレイの紅潮した顔は涙や鼻水でドロドロになっていた。瞳は胡乱に揺れ、目の前にいるのにルイのことなどまるで見えていない様子で、だらしなく開いた口から「あああぁぁ……」と言葉にならない呻き声を上げていた。
一体、この中で何をされているんだろう――。
マント自体が生命を有していて、アンドレイの身体を貪り食っているのではないかという、恐ろしい考えがルイの脳裏に浮かぶ。だが、捕らわれた少年の表情は決して苦痛を訴えてはいなかった。気持ちよくて気持ちよくて他の何事も気に掛ける気にならない、とでも言うような――いうなれば、恍惚としていたのである。
「だけど、残念だったわね、もうこの子は私のモノ……もう、坊やとは会えなくなっちゃうの……ほほほほ……お別れをいいなさい」
「ああぁ……あうううぅ……!」
ルイは言葉を盗まれたみたいに、無言で友を凝視し続けていた。
少年の心にあるのは恐怖だけではなかった。もう一つ、あってはならない欲望が頭をもたげていた。
「……あなたも、私のモノになりたそうね……」
「え……!?」
少年は驚き目を見張った。吸血鬼の言葉が突拍子もなかったからではない。その逆だ。
自分も彼女に攫われてしまいたい――。
どこか知らない遠くへと連れて行かれたい――。
少年自身、理解しがたかったそんな願望を、ディアナはぴたりと言い当てたのである。
「な、なんで……わか……あっ!」
そんなことを言ってしまえば肯定したのと慌てて口を塞いだがもう遅かった。
慌てふためく少年の姿に、ディアナは嫣然と微笑した。
「んっふふふ、わかるわよ……だって、おちんちんをそんなに膨らませちゃっているんですもの……私がこの子を可愛がるのを見ていて、いけない気持ちになっちゃったのね……自分もされてみたいって……」
ルイの脚の間に舐めるような好色な眼差しが注がれる。恐怖に縮み上がっていたはずの男の象徴は、少年自身さえ気が付かないうちに、硬く張り詰めズボンの生地を押し上げていた。
「これは、ちがう……そんなんじゃないったら……」
股間を抑えて、小さくなれと念じてもその効果は捗々しくない。それどころか、ますます硬く膨れ上がるようであった。
「あら、隠す必要はないじゃない……それはとても素敵なことなのよ」
吸血鬼は身をかがめ、ルイの顔を覗き込んで来た。美しい金色の瞳に見つめられると、意識を吸い込まれたみたいに、眼が逸らせなくなってしまう。心がじれったく痺れ、うっとりとした気分になってしまう。
「あなた、綺麗な顔をしているわね……私好みの可愛い坊やだわ……ほほほほほ……本当に、さらってあげましょうか?」
その一言に、ルイの胸は強く高鳴った。にわかに、意識がふっと軽くなり、我と我が身が何かとんでもない過ちをしでかそうとする予感を、自ら感じた。けれど、少年が行動を起こす前に、吸血鬼は一歩身を引いた。
「だけど残念。今夜はこの子だけの予定だから、坊やのことは見逃してあげる」
ディアナは黒い手袋を着けた手でアンドレイの顎をそっと撫でると、再びマントは閉じてしまった。黒色の帳の向こうからは、尚も淫らな音が聞こえてきていた。
「次の青い満月の夜、私はまた来るわ。その時は――」
魅惑的な金色の瞳がルイを見つめる。意識がふっと遠くなるような気がした。
「今度は坊やを攫ってあげるわね」
そう言い残し、女吸血鬼は影が夜闇に溶けるように消えてしまった。後には呆然となったルイだけが残された。

体験版はここまでです。続きはこちらから

イラストはなぐるふぁるさんやUN_DOさんが担当されています。エッチだよ

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