シロフミ 2020/08/05 21:44

【習作】わたしの後ろの経歴

 数年前の習作の改訂。アナル遊び。スカ成分は薄め。




 今日はわたしの話をしようと思う。
 わたしがおしりを使った遊びにハマってしまったのは、単純な好奇心によるものだったのは、前にも話したと思う。
 わたしはずいぶん小さい頃から――たぶん、小学校に上がってそんなに経たないころから、赤ちゃんがどうやって産まれるのかについて、人の何倍も興味をもっていた。
 ……より正確に言うならば、どうして赤ちゃんができるのかではなく、赤ちゃんがどこからどうやって生まれてくるのか、ということを知りたくて仕方がなかったのだ。
 学校の図書室に行く頃から、「からだのしくみ」みたいなマンガ図鑑で、お母さんのおなかの中に赤ちゃんが居る断面図は見たことがあったけれど、じゃあ一体赤ちゃんがどこから来るのかというのは、『お父さんとお母さんが愛し合って、赤ちゃんのもとをお母さんのおなかの中に送り込みます』なんて書かれているだけで、実際にどうするのかよく分からなくて、ずっと不思議に思えて仕方なかった。
 はじめてセックスの事を知ったのは、たしか誰かが持ってきた海外の絵本。毛むくじゃらの男の人が、大きくなったおちんちんを女の人に突き刺しているイラストでだった。
 大分デフォルメされてはいたけど、セックスがどういうものかというのと、射精というものがあるのとその時始めて知った。それまでにも『お○んこ』とかいう言葉は知っていたのだけど、それは「大人の人がおちんちんを舐めたりあそこを舐めたり、それをくっつけたりすること」であって、わたしにとっては「なんだかよく分からないけどいやらしい汚い事」でしかなくて。それが赤ちゃんを作る方法とは全く結びついていなかったのだ。
 だから、セックスの方法と、妊娠の順番を見たときは本当に衝撃だった。頭が沸騰して蒸発しそうになるくらいに興奮したのを覚えている。

 今更何言ってんだと思われるかもしれないけど、たぶん、わたしはフツウの女の子よりもずっとずっといやらしいことを考えるのが得意だったに違いない。
 だから、この世界に男の人と女の人がいることや、セックスの方法をしってからほとんど間をおかずに、わたしはエッチなことのためにおしりの孔を触ることがあるという知識も得てしまった。
 ――けれど、わたし自身がおしりの孔をいじっていて気持ちいい、と感じたことはなかった。
 それは実は、今でも同じ。まだ生理も来る前の小学校の頃から、オシッコを我慢して布団にあそこを擦りつけるオナニーをして、その気持ちよさを覚えてしまっていたわたしは、いまさらあそこの孔の変わりにおしりをいじったところで全然気持ち良くなれなかったのだ。
 まだエッチな本が広く規制される前、本屋でこっそりと立ち読みしたマンガのように、おしりを犯されることに憧れとかはなかった。
 その孔にはじめてお風呂でこっそり指を入れてみたときも、期待していたほど大したことはなかったし、そもそも入り口のところに何かが挟まっているくらいのことしか感じられず、それのどこが気持ちいいのかあんまり良く解らなかったのだ。
 ……それでも、これだけオナニーばかりしていたくせにあそこに指を入れるのが嫌だったわたしは、そのかわりみたいにおしりを弄ることが何度かあった。
 後になって調べて解ったことだけど、おしりをはじめとしておなかの中には体の表面の皮膚ほど神経が通っていなくて、解りやすく言えば鈍感なのだ。確かに、もし腸の中が手のひらと同じように敏感だったとしたら、うんちの大きさや硬さとか、ぐちゃぐちゃへばりつく感触が全部わかるはずだ。
 もしそうだったらきっと、いろいろ大変なことになってしまうだろう。実際にはそうでないということは、マンガや小説みたいに、おしりでえっちをしたり指を入れられたりしても、大したことはないのは当然だと思った。

 けれど――そんなおしりとの付き合いが一変する出来事がやってくるのだ。
 あれは、忘れもしない中学1年生の夏休み。
 わたしは自由研究で提出する工作の材料を買いに、電車でふた駅のホームセンターに出かけた。
 3階建てのビルの、1階のフロアのほとんどを占める工具スペースにはたくさんの棚が並び、日曜大工や工作のための加工しやすいようなサイズの木の板や棒や角材が売っていた。
 そんな中で、あまりやる気の起きない宿題の材料を適当に探しながら、なんの気無しにあちこちを見回っていた時――その中にあったあるモノから、わたしは目が離せなくなってしまったのだ。
 それは、木を削って作られた、タマゴの形をした木材。
 ちょうど10個1セットになって売られていたそれは、ニワトリのタマゴよりも小さいけれど、ウズラのタマゴよりは大きいくらいのサイズで、無造作に透明なビニール袋に入って売られていた。
 あれが一体なんのために使う材料だったのかは、結局今になっても解らない。バードカービングでもする時に、巣か何かの模型と一緒に並べておくものだったのだろうか。
 まあ精々が色を塗ったり、ならべたりしてインテリアに使うか、マッサージに使うかくらいしか思いつかない。
 けれど。ちょうどそのころ、おしりの孔に興味を持ち始めていたわたしには、そのタマゴの模型がものすごくえっちなものに見えてしまったのだった。
 そう。おしりにそのタマゴの模型を入れたらどうなるんだろう、という想像だった。
 それのころのわたしはまったく初心で可愛らしいくらいで、おしりに入れてみたものは指と、あとはあとはチューペットの空き袋でお湯の浣腸をしてみたくらいでしかなかったから、このタマゴを使った遊びの思い付きは、わたしにあたまをガツンと殴られたみたいな衝撃を与えてくれた。
 指を一本入れるのにもお風呂でボディソープを使ってぬるぬるにしてから、ゆっくりおしりを解していかなければいけないくらいなのに、よく考えたものだと思う。
 でも、その時わたしの心はすっかりその遊びに奪われていた。
 こんなに大きなものがうまく入るかどうか解らないけど、もし仮に入れることができたとして、その後。たぶん、そのあと――うんちをするように頑張ってみれば、タマゴを外に出せるんじゃないだろうか。そんなことを、一瞬で思いついたのだ。
 まだ処女だったくせに、女の子の身体が赤ちゃんを産む、ということに妙に執着していたわたしは、その想像にたちまち夢中になった。
 わたしは真っ赤になった顔を隠しながら、自由研究の材料のなかにそのタマゴを紛れこませ、一緒にお金を払って家に持ち帰った。
 しっかり鍵を掛けてあらためて自分の部屋で確認してみたタマゴはちょうど、親指とひとさし指で輪を作ったくらいの大きさだった。表面は丁寧にヤスリがかけられており、本物のタマゴみたいにつるつるだった。
 ウズラの卵よりは大きいけれど、ニワトリの卵には全然及ばないくらい。こんなものを入れてしまっても本当に大丈夫なのだろうかと不安になり、でも試してみたいと思い直す、それしか考えられなかった。
 早速その日の夜、わたしは実験を始めることにした。あらかじめトイレとウォシュレットでおなかを綺麗にしてから、お風呂の中でボディーソープを使って、いつものようにおしりを指でいじり、指を入れておしりをほぐす。いつもはなんとなく期待をして始めたはいいものの、ここで何だか物足りなくてやめてしまうのだけど――今日はその先がある。
 指が楽に入るようになってから、わたしは泡まみれにしたタマゴを慎重につまみ、おしりの孔にあてがう。
 経験的に、うんちを出す時のように力をぬくと中にモノが入りやすいことは解っていた。
 それでも、そんなに大きなモノを入れたことはない。うまくいくのかどうか全然解らなくて、緊張に強張るおしりを意識して緩め、軽くおなかに力を入れてうんちの孔をぷくっと盛り上げ、タマゴを押しこむ指に恐る恐る力を篭める。
 思っていたよりはずっと簡単に。一瞬だけ、ぴりっとした感触がおしりの孔にあって――その時にはもう、タマゴはおなかの中に消えていた。
 わたしは本当に驚いて、思わずお風呂の床を見回した。つるっと滑って取り落とした泡まみれのタマゴが、そこら辺に転がっているのではないかと思ったくらいだ。
 でも違った。タマゴは間違いなく、わたしのおしりの中に入っていたのだ。
 はっきりとは解らないけれど、確かにおなかの中に感じる違和感もあった。
 その頃には、わたしの女の子はもうすっかり濡れていて、あそこからぷくりと拭いた蜜がタイルの上にこぼれていた。あそこを直接いじる時のような快感とは違って、なんだろう、おなかが奥から押し上げられ、胸が興奮でいっぱいになっていくような、不思議な気分。
 いま、本当にわたしのおなかの中にタマゴがあるのだ。そっとおなかをさすり、……その事実にのぼせそうになりながら、わたしは緊張に高鳴る胸を押さえて、二個目のタマゴをつまんだ。
 同じようにしてそれがおしりの中に入っていくと、もうひとつ。次々とおしりの中にタマゴを押し込んでいった。
 たしかその時は、5個目を入れようとしたところで限界がきた。5個目のタマゴが半分入ったあたりで、きゅうにおなかの中が苦しくなって、じんじんとおしりの奥が熱くなった。
 ぐるぐるとおなかが唸り、弾けるように脚の間が痙攣して――我慢できなくなったわたしが声を上げると同時に、頭の中が真っ白になった。
 気付いた時には、わたしはぬるぬるした直腸液と一緒にほとんどのタマゴを産み落としてしまっていた。我を取り戻したわたしが見れば、お風呂のタイルの上には、わたしの匂いと一緒に、ボディソープと腸液でぬるぬるになったタマゴがぬるぬるてらてらになって光り、おしりから垂れ落ちる粘液にまみれて、本当にわたしが産んだみたいに転がっていた。
 その日の夜は、その瞬間の事を思い出してずっとオナニーして、10回くらいイったと思う。


 それから、だいたい週に2回、多い時には3回くらい、わたしはそのタマゴをおしりに入れる遊びを繰り返した。なんだかあまりにもやりすぎて、自分が馬鹿になっちゃうんじゃないかと不安になるくらいだった。
 一回ごとにおしりの中を綺麗にしなければいけないので、結構大変だったけど。それ以上にこの遊びはわたしを魅了していたのだ。
 何度か「練習」をしているうちに、少しずつおなかの中にタマゴが慣れてきたのか、おしりの中がそれを受け入れられるように馴染んで広がったのか。わたしはもっと多くのタマゴをおしりの中に飲み込む事が出来るようになっていた。
 はじめて10個全部のタマゴを押しこんだときは、その興奮だけでイってしまったくらい。でも、10全部を飲み込めるのはよっぽど体調がいい時で、だいたいは8個目か9個目くらいで限界だった。それ以上を無理にやろうとすると、おなかが痛くなって次の日まで辛くなるのだ。
 限界までおしりのなかにタマゴを詰め込むと、みっちり詰まったタマゴは、内臓を圧迫して、しゃがみ込む姿勢を取るのも辛いくらい直腸を拡張する。そのじんじんとした痺れと痛みの混じった感覚はなんというかとても不思議で、苦しいのにどこか止められない魅力もあった。
 とにかく、お風呂に入ってゆっくり時間をかけ、できるだけ多くタマゴをおしりに押し込む。ここまでが「準備」である。本当の目的はここから先なのだ。
 それから、できるだけ時間を置いて身体を焦らして――と言っても、おなかの中に入れっぱなしにできるのは5分くらいが限界だったけれど――わたしはいよいよ本番の悦びを覚えながら、タマゴを『産み』落としてゆく。
 何度も言うけれど、おしり自体が感じていたり、キモチ良かったわけじゃない。わたしはただただ、自分が「タマゴを産む」ことに興奮を感じていたのだ。まともなセックスもしたことがないくせに、産卵すること――人間の女の子が、赤ちゃんではなくタマゴを産むことに異様な興奮を覚えていた。
 おしりを調節しながらおなかに力を込め、1個ずつタマゴを産んでゆくと、おしりから背中がじんわり甘く疼いて、だいたい4つか5つを産む頃には頭がどろどろのぐちゃぐちゃになってしまう。
 そうするとおしりのほうもあっという間に締まりをなくして、残ったタマゴを立て続けにぶぢゅぶぢゅと吐きだしてしまうのだ。
 これはあそこをいじる一人えっちとは違う、おしり独特の感覚だった。冷静に比べてみればキモチ良さの種類は全然違っていて、どう考えても、普通のオナニー、あそこを触っている時のほうがずっとずっと気持ちいいはずだった。それなのに、わたしはどうしてもこの遊びを止めなかった。
 ……時々、ぐいぐいタマゴを入れ過ぎて、おなかの奥にタマゴが入りすぎてしまって出てこなくなったりもした。そういう時は焦って指を突っ込んだり、マヨネーズの用器を使って浣腸をしたりして取りだすことになる。
 タマゴの大きさは、便秘の時のうんちに比べればそんなに大きくもなかったけど、やっぱり木でできているせいもあって柔らかくはなくて、おしりを通り抜ける時に痛くなってしまうことも多かった。
 何度も出し入れをしているうちにすっかりおしりの孔の粘膜を傷つけ、最後にはおしりも痛くなっておなかも具合が悪くなることがほどんどだった。本当に、よく痔にならなかったと思う。
 やるたびに最後は疲れて痛くて、もう嫌になってしまうのだけど――それなのに、このおしりでするタマゴの遊びは何度やっても止められない魅力があったのは確かだ。


 だいたい、わたしのタマゴ遊びは半年くらい続いた。最初は猿みたいに毎日繰り返していたけど、いくら衝撃的な思い付きでも、何度も同じことをしているうちにそのうちだんだん慣れっこになってしまって、わたしはタマゴだけじゃ新鮮味を感じなくなっていた。次第に遊びの間隔も開き、わたしは他の遊びをできないだろうかと考えるようになっていた。
 ……断っておくと、断じて飽きたのではないとおもう。
 むしろ、もっともっと我慢ができなくなっていたのだ。もっと大きくて、しっかりしたカタチのあるモノをおなかの中に入れて、出してみたい――わたしはいつしか、そんなふうに、いっそう変態なことを想像するようになっていた。
 けれど、不思議なことにおしりに男の子のおちんちんを入れたいというキモチは全然起きなかった。それは普通のえっちに対しても同じことで、世間ではそろそろ初体験をした子の話が聞こえてくるくらいなのに――わたしはそっちの方は全く興味がなかった。実際、根暗でぱっとしないわたしは、明らかに男子にも相手にされていなかったし。
 話がそれた。
 とにかくわたしは、身体の中に何かを『入れる』ことと、それ以上にも増して『出す』……『産み落とす』ことに偏執的なくらいに憧れを抱いていたのだ。オシッコ我慢にハマったのも確かこのころだ。
 でも、そんな気持ちばかりが募っても、実際にはどうしたらいいのかわからないままの日々が続いた。産むなんて簡単に言うけど、実際は凄く長い妊娠期間がひつようだし、なにより出産はすごく大変だというのは、女の子なりにリアルの知識としてしっかりしていた。
 わたしの思い描く「産む」行為は、それらとはまったく別のファンタジーだったのだ。
 何回おしりをつかってヘンタイな遊びをしても満足できずに、もやもやした気分がたまっていく。このころの一人遊びはうまく隠せていたのかどうか、今になってみれば危ういものだと思う。
 とりあえず、バレて叱られたことはない。友達や親からはいつも本ばかり読んで、考え事をしているから頭がいい、と思われていたようだけど、その頃のわたしは一日の半分くらいをそんなことばかり考えて過ごしていたと思う。
 どうにかして赤ちゃんを産みたい……キモチ良い出産をしたい。起きている時も寝ている時も、そんなことばっかり考えていた。夢の中で思い描いた自分がしてみたいことを、ノートに小説みたいにして書き綴ったこともある。
 まだ文章を書く癖のなかったわたしは、マンガようにひたすら擬音を書き連ねて、稚拙に書きたいことを必死に表現していた。それでもその時は、そんなものを書きながら信じられないくらい興奮していたのだからわからないものだ。自家発電でオナニーが出来るわたしは、案外安い女の子だったのかもしれない。


 そんなある日、押し入れのおもちゃを片付けていた時に、わたしは『その子』と衝撃的な出合いを果たす。
 もともとは従兄弟がちっちゃな時に遊んでいたらしい、動物のオモチャ。後で聞いたところによると、射的かなにかの標的にして遊ぶものだったらしい。それがお下がりか何かで、親戚の中で一番年下のわたしのところにやってきたのだ。
 柔らかい、プラスチックとゴムの中間のような素材でできたそれは、パステルの黄色と白とピンク色。中身は空洞で、ちょっと押すとへこむくらいの硬さをしていた。触ったり、口に入れてしまっても怪我をせず、まちがって飲み込んでしまわないほどの大きさ。
 それは多分、小さな子の口と同じように、敏感で小さなわたしのおしりの孔にもぴったりな条件だったのだ。
 慌てておもちゃ箱を漁ると、おもちゃは5つあって、カバが2匹と、ウサギが2匹と、キリンが1匹みつかった。この5個――5匹を見て、いきなりエッチなことを思いついてしまったわたしは、やっぱりフツウの女の子に比べてすっごくヘンタイなのだろうと思う。
 そのオモチャは――特に首の長いキリンのオモチャは、ちょうど両手で握ってもすこしはみ出すくらい大きかったけど、首が長い分、身体が細長い格好をしていて。
 多分これくらいなら、タマゴを10個も楽に入れられるようになったわたしなら全部おなかのなかに入れられるんじゃないかと思ったのだ。
 わたしはまたもや、すっかりその想像の虜になった。タマゴだけじゃ飽き足らなくなっていたわたしは、こんどは、おしりの孔で赤ちゃんを産んでしまう遊びに夢中になったのだ。
 そう、妊娠。
 生理が日常になって、こっそり買うようになった小説にも、セックスをして孕まされる女の子が出てきていた。自分の身体がいずれするだろう、ファンタジーとリアルの境界線。タマゴよりももっと、生々しい危険な想像が、わたしを再び燃え上がらせた。
 動物の格好をしたおもちゃは、その対象としてまさにうってつけだったのだ。
 とはいってもやり方はやっぱり簡単で、基本的な手順は一緒だ。まずお風呂のホースを使って、ぬるま湯でおしりを中までよーく綺麗にしてから、ボディソープでぬるぬるになったオモチャをおしりに入れてゆく。そのうち、中身が空洞で押し込むと小さくなってしまうのがちょっと勿体なく感じられて、中にスポンジをぎゅうぎゅうに詰め込む事を覚えた。
 こつこつとした塊がおしりの中にぬるんっと入りこんでゆくと、おなかの内側が占領されて、ぎっしりいっぱいになったカンジがして、それだけでもうあたまがぼーっとなってゆく。
 はじめて試した時にはもちろんひとつしかオモチャを入れることはできなかったけど、3回目の挑戦でとうとう、わたしはカバとウサギとキリンを一匹ずつ、3種類のオモチャを最後までおしりの孔のなかに飲み込んでしまえるようになった。
 5匹ぜんぶは――試そうとして何度も失敗して、さすがに諦めた。
 これを書いている今ならできるかもしれないといま思いついてしまい、ちょっとヘンな気分だ。
 ともかく、3匹の動物のおもちゃをおしりの中に入れることが出来ると――わたしは努めてそれを、本当の事だと思おうとした。
 おなかのなかに3つ子のあかちゃんがいる――赤ちゃんを「妊娠」しているのだと。そっとおなかをさするふりをしておヘソのあたりを押してみると、ぎゅぅっとおなかの奥が苦しくなる。おしりの奥に感じるその鈍い痛みのような、じんじんとした感触は、それだけで興奮した。
 けれど、準備はまだ続く。これで終わりにしてしまってはいけないのである。このころのわたしはリアル志向である。できる限りの再現には徹底的にこだわった。赤ちゃんは、ただ丸のままおなかの中にいるのではないのである。羊水という水の中に浮かんでいるのだ。
 このおなかの中の赤ちゃんの仕組みは、保健体育の授業でずっと昔に習って知っていた。赤ちゃんが産まれる時は、破水といってまず最初にこの水が先に出てくるのが先だというのだ。だから、ちゃんと赤ちゃんが産まれるのとおなじように、おしりの孔を使って同じ状態を再現するのだ。相変わらず男の子とエッチをする勇気もなかったくせに、こんなところまでこだわっていたのは、今考えてもやっぱりヘンタイだと思う。
 そこでわたしは、さっきのホースを使って、おしりにぬるま湯を入れるのである。このぬるま湯は羊水のかわりだ。
 おしりにぬるま湯をたっぷり入れると、あっというまに苦しくなっておなかがぱんぱんになる。それはそうだ、どう考えても普通におしりに入る大きさを超えている。何日もトイレに行っていないみたいで、動くのも苦しいくらいだ。
 それで、おなかを大きくなったふりをしながら――実際におなかは張り詰めていて、お風呂場の鏡に映してみればほんの少し、おなかは膨らんで見えるくらいのこともあったけれど――『産まれちゃう、赤ちゃん産まれちゃう』と言って、しばらくお風呂場の中で妊婦さんの真似をするのだ。そんな事をいいながら湯船に入ったり、洗い場の椅子に座ったりした。
 きっとこんな風に、お母さんも大きなおなかを抱えて苦しかったんだと想像する。お母さんは必死で大変だったに違いないのに、イケナイ遊びをしている自分がみっともなくも感じられて、逆に興奮するのだから始末に負えない。
 もうすぐ赤ちゃんが産まれるのだと、そう思っているだけでわたしのあそこはくちゅくちゅになってびりびりと電流が走るような気分になってくる。
 そのうち、おしりの中にいっぱいになったぬるま湯が動き出し、どんどんおなかの中がぐるぐる鳴り始める。おしりから勝手にぬるま湯が漏れ出したりして、その音が本当におなかの中で赤ちゃんが暴れているみたいな気分になってくるのだ。
『産まれる、もう産まれちゃう、赤ちゃん産まれちゃう』
 だんだん我慢できなくなったわたしは、荒い息を抑えながら洗い場のマットの上に横になる。夏でもお風呂場のタイルは冷たくて、寝転がると背中が痛かった。だからマットの上に横たわって、おしりの孔で赤ちゃんを産む準備をするのだ。
 洗い場のマットは小さいので、ぐっと脚を広げて、おしりを大きく開く。角度的にちょうど脚の間が見えなくなるので、赤ちゃんが出てくる瞬間がよく見えないのが残念だった。何度か試してみて、お風呂場に鏡を持ち込むことを思いついた。
 そのうち、どんどん我慢できなくなっておなかが痛くなり、『産まれる、産まれちゃう』と何度も何度も叫んで、ついに覚悟を決めたわたしは出そうになるのを我慢するのをやめて、ぐっとおなかに力を入れる。
 するとまずおしりに入っていた水がぶしゅっと吹き出して、水鉄砲かオシッコみたいに地面に広がる。
 浣腸をした時と同じで、一回で全部ぬるま湯が出てくるわけじゃなくて、断続的に何回も何回も水が吹き出してくる。おなかの奥の方にまで入ってしまった水は、簡単には出てこないのだ。
 このとき、できるだけ赤ちゃん代わりの人形が外に出てしまわないように頑張って、調整する。本当の出産は、破水が終わってから赤ちゃんが産まれてくるので、一緒になってオモチャが出てきてしまうのが嫌だったのだ。つくづくわたしはこの馬鹿なことにこだわっていた。
 そしてとうとう、我慢しきれなくなった瞬間、おしりの孔がにちゅりと盛り上がって、びりびりと引き裂けてしまうみたいに広がって、大きな赤ちゃんが産まれてくる――と言うわけ。
 何度か試してみて、本当におしりの孔でキリンの赤ちゃんが産まれてくる瞬間をはっきり見たとき、わたしはそれだけでイってしまった。


 でてきたキリンのオモチャ――わたしの中でこの子は男の子で、お兄ちゃんという事になっていた――は、わたしのおしりの中で暖かくなっていて、ぬるぬるした腸液にべたべたに汚れていた。羊水がわりのぬるま湯を噴き出させて産み落とした瞬間、一緒にオシッコまで漏らして思い切りひっかけてしまったりもあった。
 わたしはそれをもう使わなくなった古い洗面器の中で綺麗に洗いながら(ちゃんとおしりの中身は綺麗にしていても、やっぱりうんちの孔の中にあったので気になるのだ)、うろおぼえの『こんにちわ赤ちゃん』なんて古い歌を歌ったりした。
 そのあと、しばらくするとまたおなかが苦しくなり、次に入っていたカバとウサギのオモチャも出てくることになる。上手くいけば、最初のキリンの赤ちゃんを綺麗にしてあげながら、『まって、まだ駄目』『お兄ちゃんを綺麗にしたら、もうすぐ産んであげるからね』なんて言いながらそっとおなかを撫でてあげる。2番目の長女のウサギちゃんと、3番目の末っ子のカバくん――順番に一人ずつ産んであげるのが理想だったけど、大体、そんなにうまくいくことは稀で、だいたいは破水が終わった瞬間に3匹とも一緒に飛び出してきてしまう。こうなると3兄弟なんて言っていられず、浣腸を我慢していたのととおなじような気分で、わたし的には低評価の「失敗」である。
 時々、末っ子のカバくんがでてこないままおしりの中に残ってしまうこともあったけど、慌てなくても次の日にはちゃんと出てくることをタマゴ遊びで知っていたわたしはもう焦ったりしなかった。
 わたしのおしりでの遊びはこのあと、さらにもっとエスカレートしていく。
 けれど……それはまた次の機会に。


 (了)

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