有坂総一郎 2024/06/21 18:30

カタログスペックで語られるアレ

隼と零戦を比較して云々というキジがあったけれど、記事そのものはさして動向論評する内容でもないのだが、相変わらずヤフコメの質は低いなぁと。

スペック前提のどっちが強いかなんて戦場で意味はそこまで無いんだよなと。

隼(キ43)は確かに九七式戦(キ27)の後継に位置するけれど、そもそも対米戦が現実的になった段階で急遽採用となった経緯がある。つまり、元々不採用機だった。

昭和12-16年の帝国陸軍における航空行政、特に戦闘機の将来展望については迷走している部分も多く見られる。キ43はキ27が採用された同じ昭和12年12月に試作内示が出ている。

当時、帝国陸軍が戦闘機の開発方針で従来通り格闘性能を重視した「軽単座戦闘機」、重武装かつ対戦闘機戦にも対大型機戦にも対応できる速度重視の「重単座戦闘機」、双発万能戦闘機に基づいた長距離複座戦闘機の三種が併存していた。

キ43はキ27の延長線でがあったが、中島飛行機の設計陣は重戦闘機に近い性格で設計を行っていたが、技術的な経験不足から結果的に軽戦闘機に落ち着いている。

その一方、キ44は技術的経験不足もあり、仕様などが定まらなかったことで開発そのものは優先度が低かった。しかし、それは現代的価値観や現代的視点では出遅れた感じに思えるが、十分な知見を蓄積したことでキ44を熟成させる貴重な時間を作ったことにもなる。それがノモンハン事件におけるソ連のI-16による一撃離脱戦法という教訓を得たことで、開発が促進されることとなったのだ。

さて、ここで思い出して欲しいのが、時代背景だ。30年代を通じて戦争の経験を得ている国家は実はそう多くない。

昭和6年9月からの満州事変
昭和10年10月からの第二次エチオピア戦争
昭和11年7月からのスペイン内戦
昭和12年7月からの支那事変

程度である。

つまり、この時点で戦争における知見を得ていた国家は大日本帝国、イタリア王国、ドイツ第三帝国、ソヴィエト連邦に実質限定される。

確かに昭和10-12年時点で重戦闘機の概念は既に欧州列強において確立されつつあったが、それは発動機性能や欧州大戦の経験というもので、新しい戦争におけるそれは欧州列強は一度も経験していないのだ。

無論、この時期には新概念が萌芽しつつあったのは事実だ。例えば、アメリカ合衆国において急降下爆撃機が実用化され、これによって近接航空支援という戦術が現実のモノになった。それは日米においては艦上爆撃機運用として、日独においては陸軍部隊への航空支援として戦史に残る。

さて、話を戻すが、キ27、キ43、キ44の陰に隠れて日の目を見ないが、欧米列強に準じた格好の重戦闘機っぽいものはこの時期においても存在している。キ27と競作になったキ28は後に飛燕(キ61)につながるそれだが、速度性能はキ43に迫る485km/hであった。だが、これは採用されることはなかった。

発動機性能の不安、従来の軽戦闘機と異なるため忌避されたことが挙げられる。だが、後者は体の良い言い訳でしかないだろう。問題は搭載されたハ9(BMW-Ⅵ系統)の性能があまりにも安定しないこと、性能向上が無理であったこと、それらが陸軍当局に疑問視されたのだろう。カタログスペックから言えば、間違いなくキ28の方が上である。しかし、それを否定するほど不安だったのだろう。

キ28の頓挫で欧州列強流のそれは一旦沙汰止みとなるが、川崎航空機も陸軍戦闘機の名門である。昭和14年に至るとキ60の開発命令が下される。その後、実質的に並行試作していたキ61がキ60、キ44を上回る性能を示したことから昭和17年に量産開始されることとなるが、結局、ここは陸軍当局がキ28の時に不安視した未来が的中してしまうことになる。

話はキ43に戻る。

開発方向性は難易度が低かったキ43だが、それに反して制式年度が比較的遅いのはノモンハン事件が大きく影響している。また、その後に日米関係の悪化による戦略レベルの変化に対応する必要が出てきたのだ。

試作機はキ27に対して航続性能は目を見張るものがあったが、そこまで優速ではなく制式化に疑問符が付いたのだ。その上で、ノモンハン事件が発生したことで戦訓として次期戦闘機には更なる高速化・武装強化・防弾装備が求められたことが制式化するにしても開発遅延をもたらしたのである。

しかし、第三次審査計画において満足な結果を示せず不採用とほぼ決定されてしまったが、参謀本部は南進計画に伴い南方作戦緒戦で上陸戦を行う船団を南部仏印より掩護可能、また遠隔地まで爆撃機護衛および制空が可能な航続距離の長い遠距離戦闘機(遠戦)を要求。これに応じることが出来る試作戦闘機はキ43しかなく、この時点で本命視されていたキ44では要求を満たせないことから制式化へと至る。

だが、この時点で制式化されることにはなったが、キ43はあくまで暫定的な採用でしかなく、性能に不満を覚えていた陸軍当局は何度か行われている審査の段階で抜本的な改良を行うことを中島飛行機に命じている。それこそが真なるキ43であるという認識だったのだ。そして、それはキ43-Ⅱ、キ43-Ⅲへとつながり苦しい戦局においても本領を発揮している。

さて、ここまで書いて理解が早い者は気付いていると思うが、当時、戦争という代物で世界の最先端を突っ走っていたのが大日本帝国であり、最も経験を積んでいたことがわかるだろう。よって、当時の陸軍当局も各メーカー開発陣も与えられた条件か、知りうる見識、用兵上の都合、これらに適合したモノを開発していたに過ぎない。

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