20220308ハチロクお誕生日記念書き下ろしSS 『くすり指の上の海』 進行豹
2022/03/08 ハチロクお誕生日記念描き下ろしショートストーリー
『くすり指の上の海』 進行豹
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「ハチロク、お誕生日おめでとう」
「! ありがとうございます、双鉄さま」
はっと小さく息を呑み。
少し緊張した顔を、ゆるゆる笑顔に溶かしていく。
「万が一にもありえないこととはわかっておりましたが――ずうっと言ってくださらないのですもの」
ぷっと膨れる。
今日のハチロクは、いつもよりずっと表情豊かだ。
「わたくし、双鉄さまがお忘れなのかもと。もしもお忘れでないのなら、なにか怒らせてしまったのかしらと、随分気を揉んでおりました」
「気を揉んでいたとは思えぬ乗務ぶりだったが」
「そこはそれ、わたくしもレイルロオドでございますから」
「実に見事だ。けれど、今この瞬間だけは、すず」
軍手を外し、妻の名を呼ぶ。
8620の運転台の中では恐らく、はじめて取る行動だ。
「レイルロオドであることよりも、僕の妻であることを優先してくれ」
「はい! 双鉄さま、だんなさま。けれども、今は――」
「問題ない。運転停車中だ」
わずかな戸惑いの表情が、ははぁ、と悪戯げなものになる。
「ダイアを確認した瞬間から、違和を覚えてはおりました。
みかん鉄道のレイルロオドに確認しても、穏やかな沈黙の共感が返されるばかりで」
穏やかな沈黙の共感、か。
共感が文字通りの”共感”であり、文字や音声による情報伝達を越えるものであるのだなぁと、いまさらながらしみじみ感じる。
「いつもの乗務の、けれど普段にはない運転停車。
ご丁寧に、機関士とレイルロオドは休憩時間とするようにとの注記までついて。
しかもこの場所、この時刻。」
すずの目が、側方窓から外を見る。
夕陽が鮮やかに染める世界を。
「双鉄さまのご差配ですね?」
「お願いしたら、みなが応えてくれたのだ」
御一夜鉄道、みかん鉄道。
両社のたくさんの人たちが、こころよく調整に応じてくれた。
「つまり、この時間は、みなからすずへの誕生日プレゼントでもある」
「皆様から……ポーレット様や、宗方様や……」
声を出さずに、唇が動く。
――確かにだ。
天候ばかりは、調整のしようも無いことゆえに。
この夕焼けをプレゼントしてくれたのは、きっと彼女であるのだろう。
「そうして、これは僕からだ」
「まぁ!」
とても小さなプレゼントの箱。
すすで汚れてしまったのはいかにも申し訳ないが――
「とてもうれしうございます! ね、双鉄さま、だんなさま。わたくし、これを」
「いま開けてくれ。そうしなければ、意味が薄れる」
「かしこまりました。いま、すぐに」
すずも手袋を外しいそいそ、リボンを、包装を解きはじめる。
その指が、外箱を開け、ケースを開いて――
「まぁ! まぁ! まぁ! なんと美しい指輪でしょうか!」
「3月の誕生石の指輪だ。石の名を、アクアマリンという」
「アクアマリン……お名前もとても綺麗ですね」
「意味もいいぞ」
「どのような意味でございましょうか?」
「ラテム語で、アクアは水。そして、マリンは海」
「水と、海」
つぶやいて、うっとりとケースの中のアクアマリンを眺め。
その目がハッと、僕を見、窓の外を見る。
「双鉄さま、だんなさま、わたくし、この指輪を」
「ああ、つけてくれ。夕陽が沈み切るそのまえに」
すずが左手の手袋も外す。
簡素なプラチナの結婚指輪。それと並べて、アクアマリンの指輪を重ね付けする。
「……」
そうして、そっと、夕陽にかざす。
「――ああ」
声が。聞こえる。すずの声が。
そこに重なる明るい声も、たしかに僕の鼓膜に響く。
「トップ・オブ・ザ・ワアルド」
すずの指の上、海が煌めく。
世界一の夕陽に照らされて、オレンジ色に染まった海が。
「………………ありがとうございます、双鉄さま」
やがてゆっくり、すずが振り向く。
祈りを捧げるように組んだ両手の中心に、アクアマリンを輝かせ。
「夕焼け時には、どこでも。わたくし」
「うむ」
一歩を近づく必要もない。
すずも同時に歩みよってきてくれるゆえ。
「すず、お誕生日おめでとう」
;おしまい