おかず味噌 2020/05/25 12:15

いじめお漏らし 予襲編

(「奇襲編」はこちらから↓)
https://ci-en.dlsite.com/creator/5196/article/249660


 時刻は「午後七時二十分」。「定時」をとっくに過ぎて、けれど「京子」はまだ社内に残っていた――。
――今日中になんとか、終わらせないと…。
 京子にはまだ残っている「仕事」があった。それを「仕上げて」しまうまで、帰宅することはできない。誰に「強○」されたわけでもない。ただ彼女自身がそう「決めた」というだけのことだ。
 昨今は「働き方改革」だの何だので、「残業」についてはなるべくしないようにと会社からもきつく言われている。それでも、「法律」や「制度」が変わったからといって即座にそれに対応できるほど、彼女は「器用」ではなかった。
「時間」の掛かる仕事には、それなりの時間が掛かる。「方法」を変えれば短縮できる仕事にもやはり方法を変えず、それなりの時間を掛ける。京子は断固として自分の「やり方」を変えようとはしなかったし、自分の「仕事」について周りからとやかく言われることをひどく嫌っていた。
 とはいえ、彼女の受け持っている「仕事」というのは、それほど「膨大」なものではない。そのほとんどを「部下」や「後輩」に押し付けて、自分は「責任」という名の判子を押すだけだった。しかもその責任はあくまで「名目」だけで、決してその「実質」を果たそうとはしない。「不備」があれば遠慮なく他人に押し付けるが、「成果」は自分の「手柄」にする。それが、彼女なりの「やり方」だった。
 そして今京子がやっている「作業」というのも、部下が作り上げた資料に目を通し、「見やすい」かどうかではなく、彼女の「好み」に合っているかを吟味するという「彼女にしかできない」仕事だった。

 オフィス内は「省エネ」によって、京子のデスク周辺以外の明かりが消されていた。京子以外はすでに帰宅している。ある者は今日の仕事を終えて、ある者は仕事を残したまま――。
「一人」オフィスに残った京子は、自分の意思で勝手に「残業」しているにもかかわらず、先に帰った者たちへの「呪詛」を唱える。
――どうして、私ばっかり…。
 京子お得意の「被害妄想」だった。自分だけが「不当」な扱いを受け、「不条理」な目に遭っていると思い込んでいる。やがて、その「思い込み」はやはり彼女のいつもの「論法」へと繋げられる。
――これも元はといえば…。
 自分の言うことを聞かない「部下」のせいだ。アイツらのせいで――、アイツらが仕事ができないせいで――、自分にその「しわ寄せ」が来ている。「割」を食っている。「尻拭い」をさせられている。
「すべては他人のせい」。京子の思考はやはり、そこに行き着く。
 京子は自分ばかりに仕事を押し付けて先に帰った部下が、「恨めしく」て仕方がなかった。「予定」があるのを良い事に、それを言い訳にして、早々に会社を出て「プライベート」に時間を費やす彼女たちが「羨ましく」もあった。
 だからこそ京子は、自分より先に帰宅する彼女たちを引き留めることができなかった。そうすることで自分ばかりが「悪者」にされ、あるいは「嫉妬」による「嫌がらせ」をしているんじゃないかと思われるのが嫌だった。
 彼女に出来たのはせいぜい、「へぇ~、『先輩』を残して先に帰るんだ?」と皮肉を精一杯込めた台詞を吐くことくらいだった。

――はぁ~。
 京子は長い「溜息」をついた。「不満」を吐露するように、さらには自分の前に山積された「課題」と「問題」を吹き飛ばすみたいに――。それを聞く者は誰もいない。それは誰にも届かない「声」だった。彼女の中で凝り固まり、溜め込まれた「鬱憤」だった。
 それでも――、そんな京子の「不満」と「不遇」に溢れた日々においても。決して嫌なことばかりではなかった。むしろ、そうした「日常」であるからこそ、些細な「喜び」が彼女の渇き切った「心」により染み渡るのだった――。

 京子の前には「缶コーヒー」が置かれていた。

 京子が「自分で」買ったものではない。そもそも彼女は、あまり「コーヒー」を好んでいなかった。その上、それは「ブラック」だった。彼女の人生と同じく「無糖」の飲み物だった。そんなものを彼女が自ら買うはずがない。それなのに、どうして「そんなもの」が彼女のデスクの上に置かれているかというと――。
 それは後輩からの「差し入れ」だった。ある後輩が、「帰り際」に置いていったものだった。そしてその「後輩」とは――。

「絵美」だった。

「長野さん、今日も残業されるんですよね?これ、良かったらどうぞ――」
 絵美はそう言って、京子のデスクの上に「それ」を置いた。京子は思わず面食らった。まさか、自分のことを「嫌っている」と思っていた彼女から、そのような「施し」を受けようとは――。京子は少なからず戸惑った。何かの「罠」ではないかと、勘繰りもした。
 素直に「ありがとう」と言えるような「真っ直ぐさ」を、京子は持ち合わせていなかった。たとえそれが「善意」であろうと、つい皮肉めいた言葉を返してしまう。
「何のつもり?こんな事で『自分の仕事は終わった』って言うつもり?」
 誰のせいで私が残業していると思ってるの?京子は言った。本心からそう思ったわけではないが、それでも「反射的」に彼女は「心にもない」台詞を吐いてしまう。
「そういうわけじゃ…」
 絵美は口ごもる。自分の「好意」でした「行為」に、まさかそんな反応が返ってこようとは――、彼女は予想もしていなかったらしい。彼女の顔が曇った。まるで自らの「厚意」を無下にされたように。あるいは彼女なりに、京子に取り入ろうとした「計画」を破綻させられたみたいに――。
「お疲れ様でした」
 絵美は一礼して、逃げるように京子の前から去った。「失意」を浮かべたように、自分の「奉仕」を受け取ってもらえなかったというように――。京子の机上には「缶コーヒー」だけが取り残された。彼女のあまり好まない「飲み物」が。
 もしそれが「手渡し」であったなら――、京子は受け取らなかっただろう。自分は「コーヒー」自体をあまり好まないのだと言って、断っていただろう。
 けれどそれは、彼女のデスクの上に「置かれた」のだ。有無を言わさず、断る暇さえ与えず、勝手に置かれたのだ。
 その行為に、「先輩に対して失礼じゃないか」と京子は言うこともできた。しかも何を思ったか、あるいは余計な「おせっかい」からか、缶の蓋はすでに「開けられて」いた――。まるで京子に「飲む」ことを強○するみたいに。すでに封は切られていた。
 全くもって「非常識」である。社会人としての「常識」がまるで抜けてしまっている。京子は思った。
――これじゃ、誰が先に飲んだとも分からないじゃないか…。
 あるいは誰かの「飲みかけ」であったとしても不思議ではない。もちろん、そんなはずがないことは分かっている。「課内」の誰も、京子に「間接キス」されたいとは思っていないだろう。それでも――、要は「気持ち」の問題なのだ。
 たとえ「そうでなかった」としても、「そうであったかも」と疑念を抱かせることはすべきではない。それがいわば「礼儀」の基本であり、人と人とが接する上で最低限「配慮」しなければならないことなのだ。

 だからこそ京子は、その「缶コーヒー」に今まで口をつけなかった。ある種の「気持ち悪さ」を感じていたから、というのはもちろんだけれど、やはり彼女はその「飲み物」があまり好きではなかったのだ。
 それでも、作業に何度目かの「行き詰まり」を感じた時、何回目かの「小休止」の際、京子はおもむろに「それ」に手を伸ばした。ほとんど「無意識」にも思える「行動」だった。別に「せっかくの後輩からの『差し入れ』だから」なんて考えたわけではない。しいて言うなら、「もったいないから」という現実的な理由からだった――。
 京子は「コーヒー」を口に運んだ。「缶」を口につけ、舐めるように「少量」を流し込んだ。
「苦み」が口の中に広がる。元は「冷えていた」はずの「温い」液体。喉の「渇き」をそれほど癒せるものではなく、かといって別の何かを「潤す」ものでもない。それはただ単に「苦い」だけのものだった。
 それが元々の「苦さ」なのか、時間が経ってしまったことでより「苦み」を増幅されたものであるのか、京子には判らなかった。どちらにせよ、やはり彼女の好む「味」ではなく、あるいはたとえそれが彼女の好む「味」であったとしても、それに対して彼女が怪訝に思うことはあれど、「感謝」するなんてことはなかった。
 それでも――。京子は思う。与えられた「もの」に対してではなく、あくまでその「行為」において、そこに含まれた「厚意」について考えを巡らせる。どうしてそれが、自分にもたらせられたのか、その「真意」を問う。
 もう「一口」、確かめるように「苦み」を味わいながら、その奥に微かにある「甘さ」に思いを馳せる。やはり「苦さ」は変わらない。それでも――。
――ちょっと言い過ぎたかな…?
 京子の中に引っ掛かっていたのは、およそ二時間前の「やり取り」だった。絵美の「好意」に対して、「敵意」をむき出しにしてしまったこと。さらに、数時間前のことについても考えてみる。
――何も、あんな言い方しなくても…。
 自分は「彼女のため」を思って「説教」をした。たとえ「疎まれる」ことになろうと、それは「仕方のない」ことだと。京子は割り切っていた。けれどそれは本当に「そうするべき」だったのか、と考えてみる。
 京子の中に初めて「芽生えた」感情だった。自分を「省み」、自らの行動について吟味する。彼女にとって「良好」な「兆候」だった。
 もちろん、たったの一度の「善意」(たとえそれが「善意」を装った別の何かだったとしても)によって、これまで京子が受けてきた数々の「悪意」を塗り替えてしまえるほど、彼女は単純な人間ではなかった。彼女が歩んできた「人生」はそれなりに「壮絶」なものだったし、自らの「善意」が無慈悲にも容易に「裏切られて」きた経験は少なくない。
 それでも。京子の中に、ある「変化」が訪れようとしていたのもまた事実だった。「きっかけ」はほんの些細なこと。
「一杯」の、あるいは「一本」の缶コーヒーがもたらした「奇跡」など――。とても気恥ずかしくて、他言できるものではない。それによって、自分の「価値観」が変えられたなど――、どうして人に聞かせられるだろう。
 だが、人が変わる「きっかけ」というのは、いつだって「些細」なものなのだ。京子は「変わろう」としていた。「今日から」ではなく「明日から」。彼女は自らの「行動」を「変えよう」と思った。それは京子の中に芽生えた純粋な「善意」であり、あるいはほんの一時の「気まぐれ」であるかもしれなかった。

 だが、京子がそれを「思いつく」には、すでに「時遅すぎた」のだ。あるいは彼女がもっと早くそれに気づき、自らの行動を省みていれば――、この後の「悲劇」が訪れることなどなかった。だが京子は善意に「口をつけて」いた。後輩から貰った飲み物を「飲んで」しまっていた。彼女に対する「復讐」はすでに始まっていたのだった――。

 時刻は「午後八時過ぎ」。京子はようやく自分の仕事を終えて、帰りの支度を始めた。「皮肉」なことに、それには「復讐」のためにもたらせられたコーヒーが大いに役に立った。その「苦み」を味わいながら、によって。彼女の仕事はそれなりの「成果」を上げたのだった。
 とはいえ、やはり元々「苦手」な飲み物である。京子はそのほとんどを「残した」まま、やや「迷い」ながらも、結局残ったその液体を「捨てる」ことにした。せっかくの「厚意」に対して「申し訳なさ」を感じつつも――、それもまた彼女の「選択」の一つだった。
 給湯室の「流し」に黒い液体を捨てて、缶をゴミ箱に放る。電気を消して、「オフィス」を後にする。廊下を進み、「会社を出る」その間際――。京子は少しの「違和感」によって、「トイレ」に立ち寄ることにする。
――もしかしたら…、今なら「出る」かも…。
 それは突如として現れた「予感」だった。あくまで「精神的要因」によってもたらされたものであり、決して「薬剤」によってのものではない。だがもしもこれで「出なければ」、今夜こそ「薬剤」に頼ることになってしまう。彼女にとっての「最後のチャンス」だった。
 だが、その「チャンス」はある者たちによって、阻まれることになる。「トイレ」に立ち寄った彼女の前に現れたのは――、「便意」の兆候などではなく、何人かの「同僚」であり、実体をもった「復讐」の姿だった――。

そこにいたのは――、「絵美」と「真紀」だった。
 すでに「帰宅」したはずの「後輩」たちだった。

 とっくに社内に「誰もいない」と思っていた京子は、驚きのあまり思わず声を上げそうになった。いや、本当に「驚いた」時というのは案外、声など上げられないものだ。彼女は「声」を出す代わりに「息」を飲んだ。一瞬、体に「力」が入る。彼女の四肢に「予期せぬ」力が込められる。当然、それは彼女の「下半身」にも――。
 だが、幸いなことに京子の「尻」が「息」を発することはなかった。
 ひとまず、そこに居たのが「得体」の知れない「霊体」などではなく、よく知る「人物」であったことに京子は胸を撫でおろす。だがそれでも、「どうしてここに?」という疑問までは拭えなかった。
――こんなところで何をしているのだろう?
 あるいはその「問い」は適切ではないかもしれない。ここは「トイレ」である。「何」をする場所かは言わずもがな、である。疑問に思うべきは、「そこ」じゃない。
――どうして「こんな時間」に…?
 そうだ、その「問い」こそ正しい。さらに言うならば、「どうして?」という疑問も適切だ。
 京子は数時間前のことを思い出す――。自分を「置き去り」にして次々と仕事を「上がって」いく者たち。その中には――、「彼女たち」も含まれていた。
 さらに彼女たちの内の一人、「絵美」においては、ついさきほどまで京子の頭の中に居た「存在」だった。彼女は「帰り際」、自分に「缶コーヒー」を渡し、その後で彼女はこう言ったのだ。
「お疲れ様でした」
 と。確かにそう告げたのだ。それはつまり、「先に帰ります」という宣言に他ならない。それなのに、どうして――。
 京子の「疑問」はすでに、そこに居たのが「彼女」であると認識した時点で完結していた。いかにそれが「見知った」人物であろうと、「居ないはず」の者が「居る」という事実は、やはり「得体の知れない」薄気味悪さのようなものを感じさせた。
 京子はすぐに「回れ右」をしようと思った。それをするだけの「余裕」が、彼女にはあった。彼女がここに来たのは「目的」を果たすためであったが、果たしてその目的が「達成」されるとは限らない。彼女が受け取ったのはあくまで「予感」であり、それはまだまだ「実感」には程遠かったのだ。
 この場所に「立ち寄って」おいて、逃げるように「立ち去る」自分を、彼女たちは「不審」に思うかもしれない。あるいは、またしても余計な「詮索」を与えてしまうかもしれない。それでも京子はその場から「逃げよう」と思った。それは彼女の人生における「経験」から、そこから培った「危機的意識」から、その「行動」は無意識に選択されたものだった――。
 何だか「嫌な予感」がする。まるで「草食動物」が「肉食獣」の気配を感じ取るみたいに、野性的な「勘」が京子に次の行動を決定させた。だが――。

「どこ行くんですか?『セ・ン・パ・イ』」
 その声は「絵美」のものだ。京子の「背中」に向けて、発せられたものだった。その「呼び名」は、これまで決して京子に対して彼女が使わなかったものである。それが「不自然」にも、この場において初めて用いられる。
 京子の体はまたしても「びくっ!」と震えた。本来の「関係性」であれば、とても許されるものではない。どうして自分が「後輩」の声に怯えなくてはならないのか?
 だから京子は掛けられた声に対して、あくまで「気丈」に「平然」を装って振り返ることにした。自分と「彼女」との、「立場」を再認識させるために。自分は決して彼女に対して「怯えて」いないと証明するように――。
 だが、京子の「目論見」はあっけなく外れた。彼女は「振り返った」。そして「見た」。その視線の先にある彼女たちの姿を。そこに居た彼女たちは――。

「嗤って」いた――。

 それは「笑み」ではなかった。それは京子に向けられたものではなく、あくまで彼女自身の「内側」から溢れ出した「嘲り」だった。「嘲笑」のようだった。そして、そこにあるのは「楽しさ」ではなく、「慰みもの」にする種類の「愉しさ」だった。
 京子はまたしても震えた。「悪寒」を感じずにはいられなかった。彼女には――、その絵美の表情に「心当たり」があった。それは「遠い昔」の記憶でありながらも、今でもありありと蘇ってくる、いつまで経っても「色褪せる」ことのない「思い出」だった。
 彼女のその表情に、京子は強い「既視感」を覚えた。これはまるで――。

「てか、先輩。せっかく後輩があげた『差し入れ』全然飲まないじゃないですか~」
 絵美は言った。京子にはやはり「心当たり」があった。だが、どうしてここでその「確認」が必要であるのかが分からない。確かに自分は彼女に「施し」を受けた。それは無償の「善意」であるはずだった。今になってその「代償」を求めるというのだろうか。
「まったく、待ちくたびれましたよ~」
 絵美は確かに言った。「待って」いた、と。つまり彼女たちは「偶然」ここに居たわけではなく、「必然」としてこの場に留まっていたのだ、と。京子のことを「待ち受けて」いたのだ、と。
「どういうこと…?」
 その「事実」を知ってなお、京子は返す。震える声を、それでも精一杯「取り繕い」ながら――。その言葉が出ただけ「大した」ものだ。
 絵美は答える。「即答」ではなく、たっぷりと「間」を空けて。あくまでこの場における「主導権」がどちらにあるのかを「知らしめる」ように――。
「私が先輩『なんか』に、わざわざ差し入れなんてすると思います?」
 今さら、どのような「蔑み」も問題ではなかった。より重要なのは、彼女の「真意」だ。どうして、彼女は善意を「装った」りしたのか?
 京子には分からなかった。彼女の「真意」も、彼女が「求めていること」も。彼女がどんな「答え」を期待しているのか、それさえも京子の理解の範疇を超えていた。
「まだ『気づかない』んですか?ホント、先輩って『鈍感』なんですね!?」
 問われてもなお、京子には解らない。やはり自分は「鈍感」なのだろうか?
 もしそうなのだとしたら――、それは京子が生きてゆく上で授かった彼女なりの「処世術」であり、「自己防衛」としての手段に他ならない。彼女は「痛み」や「悪意」に鈍感になることで、今日まで生きてきたのだ。たとえ「傷」を負ったとしても、それに「気づかないフリ」をすることで「致命傷」を避け、「無感覚」になることで身を守ってきたのだった。
 京子は傷口に「蓋」をしてきた。それはいわば「かさぶた」のようなものだ。ちょっと衝撃を与えれば、たちまち「剥がれて」しまう危うい「メッキ」――。そんな「かさぶた」を心に幾つも作りながら、危険な「バランス」の上で彼女はなんとか平衡を保っていた。
 だけど今、その「かさぶた」が剥がされようとしている。まだ渇き切っていない「傷口」。完全には修復されていない「傷跡」。決して「触れてはいけない」部分に、無情な衝撃が加えられる――。

「先輩の飲んだコーヒーの中に――、たっぷりと『下剤』を入れておいたんですよ」

 絵美は言った。まるで楽しい「サプライズ」であるかのように――、「ドッキリ」の「ネタばらし」みたいに――。その言葉は「刃」となって突き立てられる。
 京子の頭の中は「真っ白」になった。「理解」が追いつかない。その言葉が「意味」することも、その行為が「意図」することも、彼女には掴めなかった。
 だがそれでも、「真っ黒」な感情だけは、はっきりと感じ取ることができた。自分に向けられた、れっきとした「悪意」。もうずいぶんと長い間、決して「直接的」にぶつけられることはなかったその感覚を、京子は思い出していた――。
――どうして、そんなことを…?
 京子の中に再び「疑問」が浮かぶ。だが、今さら考えてみたところで遅い。すでに悪意は解き放たれ、「現実」のものとなったのだ。それでも京子は考える。そして、意識が自分の内側へと向けられたところで――。

――ギュルルル…!!!

 京子の腹が「悲鳴」を上げた。それは「空腹」によるものではなく、より「深刻」な原因によるものだった。あるいは――、普段の彼女にとってそれは「福音」であるかもしれなかった。「溜め込んだ」ものを「解き放つ」ことができる、という「予感」だった。
 あるいは、それは単に「気のせい」なのかもしれなかった。あくまで絵美の「発言」によってもたらせられた「幻想」に過ぎず、実際はそんなもの「ない」のかもしれない。
 そう思えるくらいに、京子の「異変」はまだ顕著ではなかった。「便意」をわずかに感じつつも、それはまだ「耐えられる」程度のもので、「限界」には程遠かった。
――今ならまだ間に合う…。
 京子は確信した。彼女たちの「悪意」がどうであれ、まだそれは京子を「捕える」ところまでは至っていない。今ならまだ――、十分に「トイレ」に行くことができる。
 というか、すでにここは「トイレ」だった。芽生えた「欲求」を果たすに「適した」場所だった。けれど、ここは使えない。彼女たちがいる。彼女たちは自分が「催している」ことを知っている。「個室」に逃げ込んだところで、「視線」からは逃れることができるだろうが、「音」と「臭い」まではどうしよもない。
 京子のたっぷりと腹に溜め込んだ「三日モノ」は、その「排出」にあたって、おそらくとんでもない「咆哮」を発することだろう。そして、出された後の「ブツ」は、みっちりと「熟成」されたことで、とてつもない「芳香」を放つことだろう。
 それらを彼女たちに「聞かれ」、「嗅がれ」てしまうことだけは避けたかった。「汚いもの」を「排泄」するという羞恥。生物であれば何者でも――、人間であれば誰でもする行い。それをすること自体は何ら「恥ずかしい」ものではない。だけど、いざそれを「認識」されるとなれば、話は別だ。そこには最大限の羞恥が伴う。「周知」されることによる「羞恥」。それだけは絶対に嫌だった。

 京子はますます、この場から「逃げ出し」たくなる。それもまた彼女にとっての「自衛」であり、「本能」によるものだった。
――逃げるは恥だが、「出す」に勝つ。
 たとえこの場においては「負け」に甘んじることになろうとも、決して「勝つ」ことにはならずとも。せめて自分の中の「欲求」にだけは勝つことができる。これは「撤退」ではなく、「勇退」なのだ。「退くも兵法」、「三十六計逃げるに如かず」――。とはいえ、この場においてとてもではないが「三十六計」など思いつくはずもなく、京子に選択できるのはその「一手」のみだった。
 京子は振り返る。「出口」の方向に。「ここ」から抜け出すことだけを思考する。あとは自宅の「トイレ」にでも――、それが無理と分かればコンビニの「トイレ」にでも逃げ込めばいいだけのことだ。
 京子は「軽んじて」いた。彼女たちの「計画」を。あくまでそれは「序章」に過ぎないとも知らず、まさかこれ以上はないだろうと、「高を括って」いた。
 だが、彼女たちの「悪意」はそれに留まらなかった――。

 京子は「両腕」を掴まれた。やはり一瞬、何が起きたのか分からなかった。だけど、すぐに気づく。自分が「拘束」されたという事実に――。
 まるで「犯罪者」みたいだ、と京子は思った。両腕をそれぞれに拘束され、「自由」を奪われた姿はまさにそうだった。あるいは自分が「宇宙人」になってしまったかのような印象を受ける。「人ならざる者」になってしまったことで、その存在を危険視され、行動を「制限」される。京子は幼い頃に観た、哀れな「特撮怪獣」を思い出した。
「どこ行くんですか?センパイ」
 彼女たちの行動に、十分「ショック」と「恐怖」を受けていた京子に対して、さらに追い打ちを掛けるように、彼女たちの声が発せられる。
「何すんのよ!?」
 京子は問う。だが、その「返答」を待つまでもなく、京子は「抵抗」する。「ジタバタ」と暴れ、「拘束」を振りほどこうと必死になる。だが。いくらもがいたところで「両腕」は掴まれたまま、「自由」になることは叶わなかった――。
「『見苦しい』ですよ、センパイ」
 絵美の「呆れた」ような声が聞こえる。今の自分の姿が「見苦しい」ことは、彼女自身よく分かっている。「便意」の危機を悟り、自らの「欲求」を果たすことだけに必死になっている。「本能」を剥き出しにした、まるで「動物」のような姿だ。いや、動物は「排泄欲求」に逆らったりなどしない。「羞恥」を抱えた「人間」とは違うのだ。
 それでも、このまま拘束され続けるようなことになれば――。彼女はやがて、「動物」に成り下がってしまう。所構わず、「人前」であろうと関係なく、自らの「欲求」を解放させてしまう。「人間」としての最後の「尊厳」を捨てた、「獣」としての姿だ。それだけは、何としてでも避けなければ――。

「危機的状況」がまさに喫緊に迫っていながらも、それでも京子はまだどこか「楽観視」していた。彼女たちのその行動はいわば「嫌がらせ」に過ぎず、まさか「最後」まではいかないだろう、と。京子がいよいよ「限界」に近づけば、さすがに彼女たちも拘束を解き、「赦して」くれるはずだろう、と。
 だから京子はこの場においても、やはり「強気」な態度を崩さなかった。それは彼女にとっての「はったり」じみた「予防線」でもあった。もしここで完全に「屈して」しまうことにでもなれば、今後の「部下たち」とのその「優位性」にさえ影響してしまう。「虐げる者」と「虐げられる者」、「管理される者」と「管理される者」、「従わせる者」と「従う者」。それらの「立場」が「逆転」されてしまう。そんなことは彼女の「プライド」が許さなかった。
 この職場に長年「居続ける」ことで、彼女が唯一「得て」きた特権。それを後から入ってきた者に強引に――しかも「不正」な方法によって――「剥奪」される。京子にはとても「我慢」できるものではなかった。
「肉を切らせて骨を断つ」なんて妥協に甘んじるのではなく、京子は「肉」さえも切られたくはなかった。なぜなら、こんな「行い」は本来許されるはずもなく、彼女の身に降りかかった「不条理」に他ならないのだから――。
「『先輩』であるこの私に、こんなことしてタダで済むと思ってるの!?」
 だからこの場においても京子は、あくまで自分の持つ前後性による「優位性」を振りかざし、「脅し」をもって彼女たちを制そうとした。それが彼女たちの「怒り」に油を注ぐことになろうとも知らず――、たとえそうなったとしても、「正しさ」は自分の方にあるのだと主張し、それが「抑止力」になると思い込んでいた。
 だが、次に絵美の発した言葉により、京子は自らのその「甘い考え」を完全に捨て去らなければならないことを悟る――。

「『自分だけ』助かろう、なんておこがましいですよ」
 京子はやはり自分が何を言われているのか、理解に時間を要した。「自分だけ」?、一体彼女は何を言っているのだろう?京子にはそれが分からない。「自分」が一体彼女たちに何をしたというのだろうか?
 確かに、彼女たちに対する普段の自分の態度には少なからず「省みる」部分もある。それを「見直す」かどうかは別として、彼女たちが「不満」に思っているのも無理はない。けれど、絵美のその言葉にはそんな「間接的」な理由ではなく、より「直接的」な理由が含まれているみたいだった。これは「八つ当たり」や「不満の暴発」などではなく、確かな「復讐」であるのだと、京子はそこで初めて理解した。
 さらに、ある「もう一人」の人物の登場によって――、その「復讐」はより明確な色を帯びることになる。その人物とは――「綾子」だった。

「物静か」で「大人しく」、「引っ込み思案」で「人見知り」。それが京子にとっての「綾子」のかつての印象だった。だが今の京子にとっては、そこに新たな「イメージ」が追加されている。それは――。

――「お漏らし」してしまった子。

「ブルッ…」と体を一瞬震わせたのち、その直後に地面を打つ「放尿」の音。彼女のスカートの中から溢れ出した「水流」は瞬く間にタイルへと広がり、やがて「臭気」を放ち始める。全てを出し終え、それから彼女は泣きじゃくり始める。
 無理もない。大の「大人」が「子供」のように、「お漏らし」をしてしまったのだ。自らの欲求を「我慢」することができなかったのだ。泣き出したくなる気持ちは京子にも分かる。これ以上ないくらいの「羞恥」による「惨めさ」を、かつて彼女自身も「経験」したことがある。
 けれど、京子とはやはり「事情」が少々違う。京子が催したのは「大」であり、その臭気は「小」とは比べ物にならなかった。それに彼女の場合の「目撃者」はもっと多かった。そして、もう一つの「相違」。京子の「お漏らし」と綾子の「お漏らし」における、最大の相違。京子はそれについて、より「強調」したかった。
 つまり京子が「お漏らし」をしたのは、彼女がまだ「十代」の頃であったということだ。もちろん、「高校生は『大人』なのか?」という議論には様々な意見があることだろう。「年齢」によっては、「選挙権」も与えられており――京子の「時代」にはもちろんそんなものはなかったが――「政治」あるいは「社会」への参加が認められてはいるものの、「少年法」の適用など、「一人前」とみなすには議論の余地が検討されており、世間的にはまだまだ「半人前」としての扱いがされる、いわば社会から「庇護」されるべき存在だ。
 その意見には、京子自身も「思うところ」がないわけでもないが、いざ自分がその「立場」に立たされるとなると、やはり「優遇」されたくなる、というのが人情であり、心情でもある。「大人」と「子供」の間を都合よく行き来できる存在。だから京子は自らの「失態」をあくまでその瞬間においては、「まだ『子供』だから仕方がない」とやはり都合よく解釈することにした。けれど、「綾子の場合」はまさに別である。
 綾子はすでに「成人」した立派な大人である。「高校」のみならず、「大学」まで卒業した、れっきとした「社会人」である。そんな彼女が犯した「失態」に、「情状酌量」の余地はない。全ては彼女自身が受け入れ、自ら「責任」を取るべきなのだ。多少の「同情」はあれど、やはりそこに「責任能力のなさ」は認められない。全ては彼女自身が被るべき「罪」なのだ。
 だからこそ京子は綾子の姿を見て――、彼女の犯した「罪」を知っているからこそ、ごく当然のように彼女のことを「見下した」。人前で「お漏らし」をする、という「失態」はそれだけ重大なことであり、その者の「尊厳」が奪われるべきものなのだ。京子は自らの経験から、それを知っている。
 そして「人間社会」においては誰もが、「意識的」であろうと「無意識的」であろうと、「自分」と「相手」とそのどちらが「上」なのか「下」なのかを見極めることで生きている――。というのが京子の「持論」である。少なくとも彼女はこれまでそうして生きてきたし、彼女を「虐げて」きた連中もまた、同じようにして彼女を「見下し」てきたのだ。
 だからこそ、自分が「綾子」に下した「評価」について、京子が悪びれることはなかった。全ては「相手」のせいであり「自己責任」なのだ、と彼女は思っていた。だが、その「意見」はやがて「覆される」ことになる――。

 京子は綾子を見た。「入口」の方から来た彼女が誰であるかを認識するのに、時間は掛からなかった。それでも、京子はやはり「疑問」に思った。どうして彼女がここにいるのだろう、と。その「答え」はすぐに明らかになった。
 京子は見た。綾子の「目」を。視線を合わせたことで、その奥に「宿る」並々ならぬ「思い」を受け取った。それは明らかな「敵意」であり、紛れもなく「京子」に向けられたものだった。
 綾子の掛けた「眼鏡」越しからでも、それは十分すぎるほどに伝わってきた。「熱」を帯びたような視線、けれどその「温度」はとても「冷た」かった。
 普段の綾子が決して見せないような「表情」あるいは「態度」、もしくはその「ギャップ」に京子は思わずたじろいだ。気がつくと、彼女の脚は「震えて」いた。それが「恐怖」によるものか、視線の「冷たさ」によるものか判別できなかった。だが、それらは同じものだろう。
 綾子はゆっくりと、緩慢な動作で近づいてくる。まるで「肉食獣」が慎重に「狙い」を定めるように。わずかずつ「射程」を狭めてくる。この場において「主導権」がどちらにあるのかを、「獲物」に知らしめるみたいに――。
 京子はひとまず「疑問」を止めて、再び「抵抗」を始めた。一刻も早く「逃げなければ」と思った。だがその考えは「半分」間違っていた――。
 綾子の「登場」によって怯んだのは、京子だけではなかった。おそらくその登場を「予期」し、それもまた「計画」の一部であり「想定内」であったにもかかわらず。その「実行者」であるはずの「絵美」も、「立案者」であるはずの「真紀」もまた、「綾子」の想定外の「迫力」に思わず怯んでいた。まるで「別人格」であるかのような綾子の「豹変」ぶりに、あるいは自分たちがその「一助」になってしまったのではないか、と怯えた。

 彼女たちのその「動揺」は、あるいは京子にとって良い「方向」に作用した。一瞬――、京子を掴んでいた、腕の力が緩んだのだ。その「隙」を京子は逃さなかった。すかさず「抵抗」を試みることで、京子の「拘束」はあっさりと解かれた。
「あっ!」と呆けたような声を上げた絵美を「置き去り」にして、京子はその場から「逃げ去った」。とっさのことにしては、彼女の「判断」は適切だった。
 問題は、彼女の逃げた「方向」だった。結果的に彼女はあまり遠くに絵美たちを「置き去り」にすることはできず「逃げ切る」ことは叶わなかった。
 綾子は京子の「前方」、つまり「入口」の方から迫ってきていた。だから必然、彼女の逃げる先は「後方」にしかなかった。けれど当然、その先は「行き止まり」だった。京子は「逃げる」ことで、自ら「追い込まれる」ことになったのだ。「行き場」をなくし、すぐに目の前の壁に「行き当たる」。
 あるいは京子は機転を働かせて、「個室」に逃げ込むことだってできた。個室に飛び込み鍵を掛けることで、あくまで「一時的」とはいえ危機を「保留」することくらいはできた。それで彼女たちが「諦めて」くれるとは到底思えなかったが、少なくとも「その場しのぎ」にはなる。しかも、その場所には今の京子が最も「切望」し、「希求」すべきものがある。「便器」が――。
 こうなったら、「背に腹は代えられない」。たとえ「音」を聞かれようと、「臭い」を発することになろうとも、そんな「羞恥」を○すことになろうと――。それでも、「最大の羞恥」に比べればマシだった。もはや「選択」の余地はない。

――百聞は「失便」に如かず。
(「百」回排泄音を「聞」かれようとも「失便」よりはマシ、の意)

 とりあえず腹の中の「モノ」を全て出し切ってから、後のことはそれから考えればいい。ひとまずは今の自分にとっての最大の「弱点」を捨て去ってから――たとえその「行為」によって「嘲り」と「蔑み」を浴びようとも――その先のことはそれから決めればいい。それこそが京子の選ぶべき、たった一つの「方向」だった。

 だがしかし、京子に残された「最後の道」はあっけなく「閉ざされる」こととなる。綾子によって――。
 京子の取った、とっさの行動を、とっくに綾子は見破っていた。即座に、彼女もまた移動を開始する。絵美たちのいる場所を追い越し、京子の背中に追いつく。
 ここで「命取り」になったのは、京子の一瞬の逡巡だった。彼女は個室に入るのを躊躇った。あるいはただ逃げ込むだけでも良かったのに――、その場にあるだろう「救済」に思わず目が眩んだのだった。
 再び、京子の腕は掴まれる。さっきよりも「強い力」で。一体綾子のどこにそんな力が眠ってたのか、不思議なくらいだった。そしてその「握力」は京子を拘束するだけでは飽き足らず、やがて「暴力」となって彼女へと降りかかる――。
 綾子は京子の腕を引いた。力任せに、何の遠慮も躊躇もなく、強引に彼女を引っ張った。京子は体勢を崩すことになる。比較的「小柄」な綾子に対して、平均的よりやや「大柄」な京子だったが――それなりに身長も高く、やや太り気味――それでもその「体格差」を覆すほど、綾子の「暴力」には微塵も自制はなかった。
 そしてさらに、体勢を崩した京子に追い打ちを掛けるように、綾子は今度は京子の体を押し、突き飛ばした。
 京子の体がよろめく。足元が定まらず、そのまま後方の壁へと背中を打ち付ける――はずが、そこで強すぎた「勢い」のせいか京子の体は「一転」して、「後ろから」ではなく「前から」壁に飛びこむ体勢になる。あるいは「顔面」を打ち付けることになる。反射的に京子は腕を前方に伸ばした。そうすることで何とか、壁に「手をつく」ことで怪我だけは免れた。だが――。

――プゥ~。

 緊迫したこの状況において、「不似合い」な「音」が聞こえた。ある種「楽観的な」、どこか「緩慢さ」もある、とても「マヌケな」音――。それは京子の「尻」から発せられた――。
 それは京子の「屁」だった。あるいは「おなら」と言い換えることもできる。だがどちらにせよ、それが「子供」じみた、「小学生」にとっての「笑い」における大好物であり、「大人」が、しかも「社会人」がそれをしてしまうことの羞恥は、とても「笑い」で片づけられるものではなかった。
 自らその「音」を発しておきながら、京子には一瞬何が起きたのか分からなかった。自分は突き飛ばされた。綾子によって。彼女の圧倒的「暴力」によって――。
 だから、それは決して「自分のせい」ではない。全ては「他人のせい」なのだ。
 だが、そうはいかない。理由がどうであれ、それを「してしまった」のは京子自身なのだ。彼女はその「報い」を向けなければならない。彼女が綾子の「悲劇」に「自己責任」を求めたように。「嘲笑」によって、それを甘受しなければならない――。

 一瞬、その場は「静寂」に満たされた。それがより京子の放った「音」を、その「余韻」を強調する。
 そして、その直後――。トイレ内は「笑い」に包まれる。京子の肛門が思わず「緩んで」しまったことによりもたらせられた、「緩んだ」空気が、一気にこの場を支配する。「恐れ」や「戸惑い」を忘れて、ある意味この場が「一つ」になる。
「マジですか、センパイ!いや、あり得ないでしょ!?」
 絵美が「信じられない」というように、京子の「失態」を叱責する。もちろん、「嘲笑」の声に京子のものは含まれていない。それは「爆笑」のようなストレートなものではなく、あくまでどこか冷え切った「嘲笑」だった。
「てか、めっちゃクサいんだけど!!」
 続けて絵美は言う。まさかそんなにすぐに、離れた彼女の元にその「芳香」が届くとも思えないが――、それでも「おなら=臭い」という等式から彼女はその答えを導出する。

 それにしても――。これまで一度も声を「言葉」を発していない「真紀」が、京子にはやや「気掛かり」だった。彼女は京子に「罵声」を浴びせるでもなく、「挑発」するでもなく、さらには「嘲笑」するわけでもなく、ただじっと黙り込んでいた。その「沈黙」が、京子にとっては「恐怖」でしかなかった。一体、彼女は何を「企んで」いるのだろう――。

 とはいえ。京子はここで初めて、自らの「弱み」を晒してしまった。あるいはそれは、単なる「生理現象」であり、決して恥じるべきものではないのかもしれない。だが、そんな「言い訳」はもはや通用しない。彼女を除いたこの場の「全員」が、彼女を「辱め」「貶める」ことだけを目的にしている。いわば彼女はそれに一度「屈して」しまったのだ。もはや、逃れる術はない。
 京子は「羞恥の音」を発した、タイトスカートの「尻」を突き出しながら――。彼女はこの先に待ち受ける「最大の羞恥」に対して、あくまで「抗おう」としていた――。

――ギュゴルルル…!!!

 締め付けるような「痛み」が京子の下腹部を襲う。さっきまでのものとは違う。「切実」に訴えかける「悲鳴」。今すぐにでも、その場にうずくまりたくなるような「大波」。
 急に動いたせいだろう。「衝撃」のせいもあるだろう。あるいは「ガス」の放出を不覚にも許してしまったことで、肛門が錯覚してしまったのかもしれない。もう「耐える」必要はないのだと、「出して」しまって良いのだと――。
 京子は慌てて自分の腹を押さえた。傍から見れば、綾子に腹部を殴られたようにも受け取れる。だが京子の痛みは「外部」からもたらせられたものではなく、「内部」から込み上がってくるものだった。
――もうダメ…!!!
 京子は「諦め」を覚悟した。「走馬燈」のように、かつての「記憶」が蘇ってくる。「ダメだ」と分かっていながらもついに肛門を通り抜ける「感覚」が、やがて尻に広がる不快な「感触」が、そして浴びせられる「罵声」が、出してしまったことによる「羞恥」が。つい最近の出来事であるかのように、「追体験」される――。
――私、また「お漏らし」しちゃうんだ…。
 高校生の時に続いて「二回目」。「十代」の頃から、実に「十数年ぶり」。とっくに成人した「大の大人」が、またしても人前で「糞」を漏らしてしまう。
 京子は目を閉じた。痛みをこらえるように。現実から目をそらすみたいに。視界を瞼で覆って、ただそれらが過ぎ去るのを待った。
 その瞬間は、とても長い時間に感じられた。「地獄」の淵に足を掛け、あともう一歩で「彼岸」に渡ってしまう――そのすんでのところで。だが、京子はそこから「生還」した――。

 急激に腹痛が収まっていく。「出した」わけでもないのに、まるで「無くなった」みたいに、「便意」が消えていく。人体というのは不思議なものだ。あれほどまでに「逼迫」していた「限界」に、まだもう少し「先」があることを知る。
 だがその「猶予」が「余裕」ではないこともまた、京子は知っていた。あくまで「波」が一時的に収まったに過ぎない。「ブツ」はすでに下りてきている。「本震」の前に「微震」があるように、「津波」の前に潮が引くみたいに、それはやはり「予兆」に違いないのだ。もはや「決壊」は近い。「トイレの神様」ならぬ「便意の神様」は決して彼女に微笑むことはない。むしろ「悪魔」のように、彼女を弄んでいる。
――一刻も早く、ここから逃げ出さないと。
 京子は決意を新たにする。その意志は「恐怖」によって生まれたものではなく、より実感を伴った「危機」によって芽生えたものだ。だからこそ一瞬、彼女は「背後」にいる者からの「威圧」を忘れた。恐怖に「打ち克つ」のではなく、あくまで「忘れる」ことで、「火事場の馬鹿力」ならぬ「糞力」を発揮するような、そんな境地に至ったのだ。
「力」を得ることで、人は「傲慢」になれる。たとえそれがほんの一瞬の錯覚であろうと――、むしろ「盛者必衰」であるほど――、その束の間の「栄華」を極め、「虚栄」を張りたくなる。
 京子は思い出した。自分と彼女たちの「関係性」を。想定外の「反抗」によって、「飼い犬に手を嚙まれた」ような心持ちにもなりかけたが、冷静に考えれば自分が彼女たちに「屈する」理由はどこにもない。京子は決して「下剋上」なんて「理」を――、その「不条理」を許さなかった。

 京子は振り返った。目の前には綾子がいた。「下位」の者でありながら、「上位」である自分を見下したような不遜な視線と態度。彼女が一番「我慢ならない」状況だった。
――どうしてこの私が、こんな奴に好き勝手されなくちゃいけないの!?
 クラスで目立たない、大人しい女子。自分の意見を発することさえできず、「強者」に同調することしかできない。そのくせ、あたかも自分も「強者の側」に立ったように振舞う。次の「ターゲット」はあるいは自分であるかもしれないのに、それさえも忘れて暫定的な「平穏」に胸を撫でおろす。そんな「身の程をわきまえない」女子たちを、自分に直接手を下してくる女子たちよりも、京子は憎んでいた。あくまで自分は「無関係」であると高を括り、「無神経」な視線を送ってくる彼女たちを、「お前もいつか同じ目に遭わせてやる」と京子は恨んでいた。
 そんな「女子」たちと綾子とが重なる。きっと、かつての彼女も「彼女たち」と同じであったに違いない。強者の影に怯え、陰で自分を蔑む。そうすることで、自分は「弱者」ではないと思い込む。「姑息」で「卑怯」で、救いようのない奴ら。京子は段々と腹が立ってきた。腹に据えかねなくなってきた。自分が腹に「抱えて」いることさえも忘れて――。

「私にこんな事して、いい度胸ね!」
 京子は「虚勢」を張る。つい一瞬前まで「便意」にうずくまっていた者とは思えないほどの、圧倒的な「逆襲」だった。
 元々、「強者」に対しては決して抗えない性質の綾子である。その京子の「逆転」ぶりに、思わず一歩身を引いた。彼女の「精神」と「心身」に染みついた習性である。そして京子は、その反射的な「後退」を決して見逃さなかった――。
「自分が無様に惨めな姿を晒したからって、他人を同じ目に遭わせようなんて――」
 アンタの「性根」は腐っているわね。京子は言った。
「アンタが『お漏らし』したのは、自分のせいでしょ?」
 良い歳してトイレの「しつけ」がなっていないなんて、まったく親の顔が見てみたいわ。京子は告げた。他人の「弱み」につけこみその「弱点」を突くのは、彼女の最も得意とする手法だった。
 さらに「一歩」、綾子が後退する。京子の「変わりよう」があからさまなように、彼女の「変化」もまた明らかだった。彼女の「変貌」は見破られた。「怒り」と「仕返し」に燃えた――、あるいは彼女自身がそう「演出」していた「復讐」のための姿。その「仮面」は、「メッキ」は見事に剥がれ落ちたのだった――。
 ついさっきまでの「迫力」は、もはや見る影もない。綾子は京子と視線を合わせることさえできず、ただ「もじもじ」と体を揺さぶらせて、「後退」と「撤退」の間で留保していた。彼女のその姿はまるで――「おしっこ」を我慢しているみたいだった。
 だが、実際は違う。「我慢」しているのは京子の方であり、しかも彼女が我慢しているのは「大」の方だ。そしてその「失態」は、「小」の方とは比べ物にならない「羞恥」と「崩落」を含んでいる。
 けれどようやく、この長い「闘い」に「終止符」を打つことができそうだ。綾子が退いたことで、京子は「前進」する。「詰め寄る」ように、また「一歩」と綾子の方へと近づく。だが、京子の今の「目標」は彼女ではない。すでに眼前の「敵」は消えた。もはや、そこに「照準」を定める必要はない。「彼女」については、あるいは「彼女たち」については後日たっぷりと、自身の「立場」と「身の程」を叩きこんでやるとして――、今はそれどころじゃない。

――とりあえず、「トイレ」に行かないと…。
 あくまで彼女の「照準」はそこに向けられていた。
 とはいえ、「ここ」ではない。いくら彼女たちを「制した」とはいえ、さすがにここで目的を達するわけにはいかない。そんなことをすれば、再び自分と彼女たちとの「関係性」が逆転されてしまうことにもなりかねない。あるいは自分がさらなる「原因」を作ってしまったことで、「復讐」はより凄惨なものとなるかもしれない。今はとにかく、これ以上余計に何も「刺激」することなく、「退く」ことが得策だ。
 これは「撤退」ではなく「勇退」だ。京子は自分に言い聞かせる。「退けられた」のは自分ではなく、あくまで「彼女たち」の方なのだ。それを示すように、京子は「威風堂々」と歩む。その道は「凱旋」の花道でなくてはならない。
 相変わらず震えたままの綾子の横を通りすぎ、入口の「二人」の方へと向かう。彼女たちもやはり、怯えたようにすんなりと京子の道を空ける。
 京子はすでに「勝利」を確信していた。その「喜び」からか、いくらか彼女たちに対する「恩赦」も考えないではなかった。だが、やはり京子は自分の中に芽生えかけた「甘さ」を否定する。
――いつか、アンタたちも「同じ目」に遭わせてやる…!!
 と。けれどまあ、今はとりあえずその事は置いておくとして。京子は「二人」の横を通り過ぎようとした――、その時。

 京子の前に「足」が「出される」。少なからず「警戒」しながらも、やはりどこか「油断」していた彼女は当然、その足に躓く。だが、とっさにもう一方の脚を踏み出したことで、何とか「転ぶ」ことだけは回避した。体勢を崩した彼女はそのまま、その「足」を「引っ掛けた」相手を睨みつける。そこにいたのは――「真紀」だった。
 これまで、あまり積極的には「復讐」に加担していなかった人物だ。とはいえ、完全な「傍観者」になるわけではなく、その証拠に最初に京子を捕らえた「片方」は彼女だった。そしてその「握力」は決して「仕方なし」に緩められたものではなく、むしろ「主犯格」の絵美よりも強いものだった。そこには彼女の元々の「筋力」が影響しているのかもしれない。真紀は学生時代、「運動部」に所属していたといつか聞いたことがある。だが、それだけでは説明できない、彼女自身の「意思」も確かに加わっていた。彼女はまさに自分の意思で、この「復讐」に加担していたのだ。
「足をかけた」のが真紀であると知って、京子は少なからず「驚き」と、それ以上に「かなり恐怖を感じた」。元々、この復讐が実行される以前から――、京子は真紀に対して「畏れ」を抱いていた。自らの信奉する「論理」に当て嵌まらない人物。自らの絶対とする「上下関係」に平気で挑んでくる人物。京子は真紀を「警戒」していた。だからこそ京子は「復讐者」の中に――たとえそれが「間接的」であろうと――「真紀」がいることを知って、一度は「負け」を覚悟したのだった。
 だが、その真紀がこれまで「発言」しなかったことで、京子は安堵した。個々の事実はあるものの、やはり彼女はあまり「乗り気」ではないのだと思い込むことで、京子は少なからず余計に「調子に乗って」しまった。そのことが彼女の「琴線」に触れてしまったのだとしたら――。京子はその「因果応報」を恐怖した。
 京子は、反射的「睨み」を慌てて元に戻し、とっさに「矛を収める」。後に残ったのは、「被虐者」としての「媚びる」ような姿勢だけだった。だが、そんな京子の「判断」もすでに遅い。とっくに真紀は「やる気満々」だった。
 綾子が「後退」し、同時に絵美すらも「降板」したことで、今度は真紀が「交代」する。本来は綾子のものであるはずの「復讐」を、真紀が「登板」することで引き継ぐ。もはやその先は、京子にとっての「敗北」に他ならなかった――。

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