おかず味噌 2020/08/16 20:04

クソクエ 女僧侶編「失禁と放尿 ~聖女の秘めたる信仰~」

(「女戦士編」はこちらから↓)
https://ci-en.dlsite.com/creator/5196/article/311247


――天にまします、我らが「父」よ…。

「彼女」は「祈り」を捧げる。目を閉じ、口を引き結んで。掌を合わせ、「膝をつく」のではなく「しゃがみ込んで」。頭を「垂れる」のではなく天を「仰ぐ」ようにして――。

――なぜ、貴方様はこのような「試練」をワタクシにお与えに…。

「彼女」は思う。この世に「生」を受け「生きる」上で、何と「艱難辛苦」の多いことだろう、と。「祈り」は通じず、「願い」は叶わず、いかに「信仰」を重ねようと「救い」が訪れることはない。
「神の巫女」であるはずの彼女としても、さすがに。「主」の実在を疑いたくもなってくる。なにしろ、彼女の「たった一つの願い」さえ、聞き届けられることはないのだから。

――あぁ、神よ。ワタクシは一体どれほど「耐え忍ばなければ」ならないのでしょう。

 すでに「祈り」は十分過ぎるほどに捧げている。そろそろ、いい加減――。


「あ~もう!!『うんち』出てよ~!!!」


「アルテナ」は叫んだ。神聖なる「教会」などではなく、「御不浄」なる「個室」で。「祭壇」に向かってではなく、「便器」にしゃがみ込んだまま――。

 肌を覆う「濃紺」の祭服――いわゆる「全身タイツ」のような「格好」。その「形状」、あるいは「特性上」、「排泄」をするためには一度「全て」を脱ぎ去らなくてはならない。「信仰」の「象徴」である「十字架」の修飾された「前掛け」を取り、背中の「留め具」を外して、「首元」から「足先」まで一気に脱ぐ。途中、彼女の豊満な「凹凸」にそれなりの「抵抗」を感じたが、それでもその慣れた「一連の儀式」にはさしたる「滞り」もなかった。
 脱いだ「衣服」は全て、個室の「壁」に掛けられている。「外」から見れば、「誰が」入っているのか、「行為の最中」であることは一目瞭然なのだが、それも致し方ない。

「聖職者」だって「排泄」はする――。

 それは「真理」でも何でもなく、ただ厳然たる「事実」なのである。あるいは、たとえ「女神」といえども――。
「祭服」を取り去った彼女はもはや「聖女」などではなく、そこにあるのは単なる「ごく普通」の「一人の女性」の姿であった。ただ一つ、彼女のその「美貌」がまるで「女神」と見紛うほど「美しい」ことを除けば――。

「女神」は現在、「衣服」はおろか「下着」さえも身に着けてはいなかった。「下穿き」については「最中」であるがゆえ「当然」なのだが、彼女は「胸部」を隠すための「布」さえ纏ってはいないのだ。
 それはなぜか?「問い」に対する「答え」は自明である。それはつまり――、彼女が「元々」それを身に着けない「習慣」であるからだ。

 先述の通り、彼女の「普段着」は全身をすっぽりと「覆い隠す」濃紺の祭服である。「前掛け」の大仰な「刺繍模様」を除けば、他に「装飾」の類は一切なく、その「装い」は実に「地味」一辺倒のものである。
 その「質実さ」は、「華美であれ」とする本来の「服飾」のあり方とはむしろ真向から「対立」するものであり、そこには彼女がその「身」と「人生」を賭して歩む「信仰の道」における、まさしく「神の教え」の一つが大いに息づいている。すなわち――、

 隣人、色を好むべからず――。

 というものである。いまだ「修行の道」の途上である「修道女」の彼女にとって、いわゆる「恋愛」は「ご法度」であり、たとえ自分に「その気」がなくとも――、むしろないのであればこそ余計に――、不用意に「異性」に「劣情」を抱かせるような「格好」ないし「行動」は「慎む」べきである、という「教え」である。
 だが他のものはともかくその「教え」についてだけは、彼女はいささかの「疑問」を呈したくもあった。
「信仰」とはつまり、日々の「祈り」によって遂げられるものであり。「祈り」とはつまり、「願い」の「可視化」に過ぎない。では何について「願う」のかといえば――人によって様々であろうが、大きく「一言」で括るならば――それは「愛」についてである。
「家族愛」、「兄弟愛」、「隣人愛」。「愛」においてはまさに多様なものがあるが、それらをやはり「一言」でいうならば、それは「人類愛」である。
 つまりは「人」が「人」に向ける「思い」、「感情」、「労り」、「労い」、「優しさ」、「慰め」、「慈しみ」、「親しみ」、「想い」。それこそが「愛」なのだ。
 であるならば、いわゆる「男女間」における「愛情」についても、それは当て嵌まるのではないだろうか。いやむしろ、本来全くの「他人同士」である「関係性」から、「逢瀬」と「接触」と時を経てこそ培われるその「愛」こそまさに、人類における「真の愛」ではないだろうか。

 アルテナはそう思っている。そして現に、そんな彼女にも「真なる愛」を真摯に捧げる「紳士」。つまりは「想い人」と呼ぶべき「存在」がいる。
 その「彼」はどこか頼りなく、ときに危なっかしくて、いつも彼女を「落ち着かない」気持ちにさせる。「庇護欲」を駆り立てられるような、あるいは「母性」すらも感じさせるような、まるで「童子」のような見た目でありながら――。
 けれどその「瞳」に宿る「意志」は強く、ひとたび「剣」を振る彼に「背中」を預け、あるいは「前衛」を任せれば、その「矮躯」には到底「不相応」な「敵」を次々と「なぎ倒して」ゆく――。
 そして、やがて「戦闘」を終えれば、また「いつも」のどこか頼りなく、「無邪気」で「幼い」だけの「少年」に戻っている――。
 そんな「彼」の「意外性」ともいえる「ギャップ」に。「はっとさせられた」経験は、一度や二度では到底及ばない。まるで彼の「掌」で思うように「転が」され、彼の「一挙手一投足」に「右往左往」させられ、いまだ知り得ない彼の「内心」に「一喜一憂」させられてしまうことが、彼女にとっては「もどかしく」もあり、けれど同時にそれ自体が「幸福」でもあった。
 つまり「一言」でいうならば――、

 アルテナは「勇者」に「恋心」を抱いていたのだった。

 とはいえ、それは「秘めたる想い」。いつか「打ち明ける」その時まで、「胸の奥」に厳重に「鍵」を掛けて「閉まっておくべき願い」。(やや、想いが「溢れ出して」しまう時もあるけれど…)
 あるいは「未来永劫」、「門外不出」のものであろうとも。「永遠」に「その時」が訪れることがなくとも。それでも彼女はただひたすらに、その「想い」を日々「醸成」し続け、その「はちきれんばかりの胸」に抱え込んでいるのだ。


 さて。やや「脱線」し掛けたが、ここで今の「状況」に話を戻すことにしよう――。

 そもそも彼女がなぜ、いわゆる「異世界」、「別時代」において「ブラジャー」と称される「婦人専用下着」を身に着けていないのか、だ。
 それについて語るにはやはり、彼女の「着衣」に話を戻さなければならない。
「質素であれ」とする彼女の「祭服」には、けれどその「見た目」において裏腹の「問題」を孕んでいる。それは彼女のその服の「形状」が――、あまりに「ぴったり」とし過ぎている、ということだ。
 それもあるいは「彼女でなければ」、さしたる「問題」ではなかったのかもしれない。たとえば彼女にとって「大先輩」にあたる、「老境」の「シスター」であったならば。それとも「年齢」は彼女とほぼ似通った「年の頃」である「若い修道女」であったとしても。もし、その者の「凹凸」がそれなりに「平坦」であったならば、やはり「問題」には至らなかったであろう。
 つまり。いわゆる彼女の「女性としての膨らみ」が、平均的な「婦人」のものと比べてあまりに「穏やか」でないことにこそ、その「問題」は起因するのだ。
「有り体に言えば」――、より「直接的」に、「控える」ことなくいうならば――、

 アルテナの「身体」は、とても「いやらしかった」――。

 眉根の垂れ下がった、そのどちらかといえば「保守的」な見た目に反して、その「肉体」はあまりに「攻撃的」であり「暴力的」ですらあった。
 全身を布で覆い隠しているにもかかわらず、いやむしろ「覆い隠している」からこそ余計に――。その「女性的な膨らみ」はより顕著に、まるでその「存在」を「誇示」するように「顕現」するのであった。
 ただ立っていても、その「丸み」は容易に窺え。あるいは「前屈み」になったりしようものならば、さらにその「部分」は「強調」され、「男性」の「視線」を「釘付け」にするのにもはや何の「遠慮」も感じられなかった。
 あるいは共に旅をする「仲間」である、「パーティメンバー」の「一人」。あまりに「過激な格好」であり「露出過多」であるところの「女戦士」と比べてみても。その「胸」も「尻」も、およそ「ひと回り」は「豊かさ」を余分に持ち合わせていた。

 彼女自身、自らのその「身体」が時に「疎ましく」思うこともあった。「欲」を禁じるべき「精神」をその身に宿しておきながら、けれどその「肉体」はまさに「欲望の権化」であるという「矛盾」。たとえ彼女に「その気」がなくとも、自らは決して意図せずとも、「男性」の視線をしきりに集めてしまうという「背反」。
 さすがに「神の巫女」である彼女に対して、あまりに「不躾」な「熱線」を送る「殿方」こそ少ないが。けれど街中においては確かに感じる、いわゆる「チラ見」という疎らな視線。
「対象」である彼女自身がそれに気づかないわけもなく。その「視線」の出所である「雄」の姿を視界の端に捉えてしまう。そして、それこそ「見なければ」いいのにも関わらず、どうしたって目に入ってしまう。一皮剥けばまさしく「獣」であるところの彼らの「衣服」のある部分――、いわゆる「ズボン」の「一点」が大きく「膨らんで」しまっているのを。

「男根」を「勃起」させている姿を――。

「町」にはあらゆる「職業」の者が行き交っている。「商人」、「鍛冶屋」、「戦士」、「武闘家」、「魔法使い」など。そうした者の中には「一目」でその「職業」と判る「格好」をしている輩もいる。
 自らの「肉体」をまるで「武器」や「防具」の一つと捉え、それを「誇示」して歩く者。「上半身裸」な者のみならず、あるいは「全裸」に近い者だって少なくはない。
 そんな「無骨」な「野郎」達が――、胸を張って堂々と闊歩する「もののふ」達が――、「修道着姿」の彼女を目にするなりどこか「気まずそう」に、場合によってはやや「前屈み」になるのである。
 だがそれは致し方ない事だ。男性の「本能」による「習性」であり、あるいは正常な「反応」に過ぎないのかもしれない。だから彼女は、そうした「欲求」を「前面」に押し出す彼らを、いちいち咎めたりなどしない。むしろこんな「肉体」をしているにも関わらず、こんな「格好」をして平然と歩いている自分にこそ「非がある」のかもしれない、と彼女は思うようにしている。

 だが「魔法使い」達については別だ。
 彼らの「格好」はそのほとんどが「厚手のローブ」である。その「装備」については「魔力」における何らかの「恩恵」を受けるためのものであるのだろうが、それのみならず彼らは自らのその「非力」な体を覆い隠すために、そうした「服装」を好んでいるのだと、アルテナは勝手にそう思っている。
 あるいは「男性」「女性」問わず、どちらでも「装備」できるその「防具類」は、まさしく彼らの「男性的魅力の無さ」の裏付けであると、やはり「偏見」じみた考えを彼女は抱いている。
 だがそんな「彼ら」もまた、ひとたび彼女をその視界に捉えた時の「反応」は実に「男性らしい」ものだった。
 分かりやすく「動揺」し始め、意識的に「視線」を逸らそうと試みる。それでもやはり「本能」と「欲求」には抗いきれず、結局何か「別の方向」を見る振りをしつつ、「チラチラ」と疎らながらも「執拗」な視線を向けてくるのだ。
 だがそれについては、彼女は「赦して」いる。理由はやはり前述の通りである。問題はその後――、彼らのその「反応」についてだ。

 彼らもまた「半裸の男達」と同じく、やや「前屈み」になり始める。あるいは自らのその「反応」を「恥じる」ように、少しでも「目立たせない」ようにするために、「腰を引く」ことで「膨らみ」を相殺しようと考える。けれどそれは、いささか「ヘン」ではないだろうか。

 すでに「描写済み」のように、「彼ら」は主に「ローブ」などを身にまとっている。それは十分に「下半身」に「余裕」のある衣類であり、「戦士」や「武闘家」たちのように「半裸」であるわけでも、「動きやすさ」を重視するがゆえの「剥き出し」の格好でもない。にも関わらず――。

 彼らもまた「腰を引く」のだ。

「普通」にしていればただそれだけで。たとえいかなる「劣情」を抱こうとも、あらぬ「妄想」に耽ろうとも、「外」から見れば「それ」は分からないはずなのに。(あるいは彼らが「異世界」「別時代」における「魔法使い」の「正装」である「『チェック・シャツ』をズボンに『イン』」する格好でもしているならば、話は別だが――。)
 それなのに――。さして「巨根」であるわけでもないだろうに(それもまた彼女の「偏見」である)、必要以上に「股間」を隠そうとするのである

「服装」と「体勢」。それでさえもはや「過剰」であろうに。けれど、その上彼らはさらなる「隠蔽」を試みようとする。
 それは彼らの持つ「武器」であり同時に「防具」でもある、「ある装備」によって行われる。

「杖」、「ステッキ」――。

「魔法」を行使する者にとってはまさしく「必需品」であり、「剣」や「盾」を持たない彼らにとっての「代替品」。己の「非力」さをカバーするものでありながら、「実力」を発揮するためにこそ用いられるもの。
 その「形状」は実に様々で――。アルテナが「所持」しているような、「霊験」あらたなかな「神木」の「幹」や「枝木」をそのまま用い、上部に「宝玉」などをはめ込んだだけの「無骨」なものもあれば。
「既製品」ともいえる、「丈夫」で「シンプル」な素材に「奇跡」の類を付与することで「デザイン」された、「コンパクト」で「スタイリッシュ」なものもある。
 そのどちらにせよ、軒並み「小柄」である彼らにおいてその「装備」はやや「長大」に過ぎ、その「矮躯」に対してやや「持て余している感」がある。
 その「杖」を用いて彼らは――、

 自らの「股間」を隠そうと試みるのだ。

「神聖」なる「巨木」、あるいは「華美」で「荘厳」なそれを、自らの「陳腐」で「醜悪」な「小枝」を隠すことに用いる。まさに「神」を、「奇跡」を軽んじ、「冒涜」する行為に他ならない。

 そして――。彼らは「隠す」だけでは飽き足らず、自らの股間に「挟み込む」ように「装備」したその「棒」を用いて、あるいは「魔術」とも呼べる「儀式」を始める。

「逞しく」「立派」であるそれに、自らの「チンケな棒」を擦り付けるのだ――。

 まるで「古代」の「魔女」さながらに。「箒」ではなく「杖」に跨るようにしながら。「太く」頑強な棒に、自らの「細く」ひ弱な棒にあてがう。
 そうして「奇跡」とは程遠く、「祈り」にさえ及ばない、ただ目先の「願い」を叶えることだけに腐心する。
 果たして、その「行為」の一体どこに「救い」があるというのだろう。決して「本懐」には至らず、あくまで「代替」に過ぎないだけのその「行い」に。あるいは届くことのない「女体」の「夢」を描くのだろうか。それとも、「死骸」となっても変わらず「選ばれし存在」である「神の子」と、決して「選ばれる」ことのない「愚息」とを比較して、ある種の「憧憬」を重ねるのだろうか。

 一見して「豪快さ」や「無謀さ」とはおよそ無縁であるように思える「彼ら」は、けれどその場においては実に「大胆」に振舞う。
 周囲の者、あるいは「対象」である「アルテナ」に。「気づかれていない」とでも思っているのだろうか。自身は「無遠慮」に「視線」を向けておきながら。まるでそれが「不可逆」のものとでも思い込んでいるのだろうか。
 もしそうだとしたら――、あまりに「浅慮」である。「想像力」が欠如している。
 あるいは彼らの脳内に描き出される「光景」は、彼らにとって実に「都合よく」書き換えられ、「不都合」は排されているのかもしれない。

 次第に彼らの「息」は上がり、「愚息」からもたらせられる「快感」によって。「猫背」気味の彼らの「背筋」はピンと伸びて、ただただ「欲望」のみに従う「子羊」となる。あまりに「無恥」で「無様」である、そんな彼らの姿を見てアルテナは、

「お漏らし」をしてしまうのだった――。

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