DC-4E購入というメリット
この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》
DC-4Eという存在は深山とともに欠陥機、駄作機という扱いを受けることが多い。
だが、そうではないことを大戦末期の新鋭機は示している。
例えば、四式戦疾風などは1年間という短期間でありながら、3500機も生産されている。これは44年1月から45年8月に中島飛行機で生産された零戦五二型系統の総数である3385機、二一型520機(44年1~4月)と比べても分かる通りで非常に生産能力を引き上げていることを示している。
この数字の大きさは零戦の生産総数が10430機という数字から考えてもどれだけ大きいかよく分かることだろう。
最後の1年8ヶ月間に零戦だけで中島で3800機以上、三菱を含めると5000機以上生産されたこと、その上で中島単独で四式戦を3500機も生産出来た理由をどこに持っていくかと言えば、全ての原点がDC-4Eにあると言える。
確かにDC-4Eは商業ベースの旅客機として不合格な高コスト体質であったし、深山はDC-4E譲りのオーバーテクノロジーと開発技術の稚拙さ未熟さによって失敗しているが、導入そのものについてはむしろ別の部分で大きな効果を生んでいたのだ。
厚板構造とその生産技術、新型鋲打ち設備、これらによって大きく航空機生産が効率的になったのである。また、生産技術の進歩によって機体設計に余裕が生じたのである。
厚板構造は強度の確保、鋲打ちの削減をもたらし、軽量化に大きく貢献し、また機体の平滑度を高めることで速度性能を高めるという効果を生み出したのである。また鋲打ちの削減は工数の削減に寄与し、生産性を向上させている。
それこそが四式戦の生産数の増大、委託生産の零戦を本家の三菱よりも量産出来た理由であった。
ちなみに零戦脳各月の生産数を見る限り、三菱は空襲や地震の影響を受けていることがよく分かるが、中島は意外なことにそれほど44年と45年の数字が大きく変わっていない。空襲が激化しつつあった45年4~6月を見ても44年の夏の数字とそれほどの違いがない。流石に45年6月以後は激減してはいるけれど、もうここに来ると空襲なのか資源不足なのか原因がどっちか判別のしようがない気がする。
それでも同じ45年8月の半月の生産数を比較すると三菱6機に対して、中島87機と考えれば、8月の総生産は200機近く行ったのではないかと思うから、中島の生産力はDC-4Eからの技術導入の成果であると考えるべきなのだろう。