有坂総一郎 2022/03/29 07:00

35トン級戦車の可能性

さて、日本戦車最弱伝説という不名誉なそれが世間に広がっているけれど、その原因は前述の通りT-34ショックにあると書いた通りだ。

突然変異で出て来たT-34なんぞに対応した戦車を造っているわけではないのだから当然のことであるが、化け物退治用に進化したドイツ、ドイツの怪物退治に登場した英国面なんかと渡り合えるわけがないのだ。

M4?あぁ、あれは別格、それを語ると話がややこしくなるから米帝は埒外とする。

欧州戦線の戦車と日本の戦車とだけを比較する。基本的に日本の場合、主敵はソ連であって米帝ではない。気に掛けるだけ馬鹿らしいから相手にしない。したところで、”ややこしい”話で頭がどうにかなりそうだから気にしない。

というか、30年代の内は、米帝は戦車の後進国でしかない。日本が米帝なんぞに見習うモノなんてない。そういうわけで、日本が気にしないといけないのは主敵ソ連と戦車発祥の国である大英帝国や独仏である。まずはそこが大事であると改めて言っておこう。米帝は30年代時点では格下なのである。

36年時点での日本戦車が当面の敵として開発を進めるに当たってはソ連のBT系列であり、これについては十分な対抗能力があったことをノモンハンでは実証している。ただし、問題はチハの開発の主軸は歩兵直協であり、大英帝国で言えば歩兵戦車の役割であった。故に、榴弾や徹甲榴弾が基本であるため、徹甲弾に比べると貫徹力に劣るのは仕方が無いことだった。また、榴弾などを用いることから短砲身を望まれたことも影響している。

それ故に戦訓として高初速/長砲身を望まれ、対戦車用として一式四十七粍戦車砲が開発され、また、次期中戦車としてチト原型が構想され試製五十七粍戦車砲<新>が開発されたのである。

実際に一式四十七粍戦車砲は500mで50~70mm、1000mで30~50mm(装甲傾斜によって前後する)という貫徹能力を持ち、前述の様にⅣ号戦車E型が装備する75mm/L24 KwK 37の500m:39mm/1,000m:35mmと比較しても遜色ない性能を有している。

よって、独ソ戦開戦時点の41年6月時点もしくはT-34対策が進む42年春の時点において、戦車砲の性能としては互角であったと言えるだろう。もっとも、既に量産体制であるかこれから量産するかの違いはあるけれども。

つまり、この時点で日本の戦車が最弱という論理は破綻するわけだ。

しかし、事態は流動的であり、進行するものであり、長砲身47mm砲で短砲身75mm砲と互角な性能を示している頃にはソ連が長砲身76mm砲を装備したT-34を生み出し、太平洋で戦端が開かれた頃に化け物として牙を剥き始めたのである。

そう、この時点で一歩後れを取ってしまったのである。

独ソ共に陸軍国であり、戦車の殴り合いを繰り返す関係にあるが、日本にその戦訓や情報が到達する頃には日本の主敵はソ連ではなく米帝に切り替わっていた。

その時点で相手する存在は敵艦隊や航空機であり、戦車ではなかった。研究開発こそ継続しているが、東條内閣の戦争指導においては艦艇建造、商船建造、航空機生産が優先とされたことで当然、資材は優先的に航空機に配分され、既存の戦車生産も削られることとなる。

これが欧州と日本の違いを更に明確にしてしまう。

そこにM4が太平洋戦域で投入され、ソ連戦車ではなくM4への対抗を求められることとなったわけだ。開発中のチトが間に合うはずもなく、急遽チヌが登板するが、その頃には制海権を失い本土決戦へと傾けるしかなかったのだ。

当初の目論見から独ソ戦、予定にない日米開戦と帝国陸軍の戦車開発は翻弄されたことで、出番を失ったが故に不名誉な扱いを受ける結果となったのは非常に悔しいものであり、正当な評価を受けることなく分不相応な相手との対戦でのスコアを理由に最弱とされたことは不当であると言わざるを得ない。

では、日本がドイツと同様に戦車戦力を進化させ得る土壌があったとしたらどうだろうか?

少なくともそういった事態は何度かあったと思われる。

例えば、支那事変において何かの間違いでマチルダⅠと遭遇し、60mmの装甲を打ち破る必要性に直面したとしたら?

この場合、上海や天津などの租界に大英帝国が展開した植民地警備用の移動トーチカとしてマチルダⅠを運用していたものと偶発戦闘になったという可能性や、蒋介石の国府軍が何らかの取引で手に入れていてゼークトラインなどに配備していたという可能性があるだろう。

そうなった場合はどうだろうか?

私はその時点で日本の戦車開発は75~88mm級の高射砲などを転用したそれが用いられると考える。突貫工事でホニⅠ相当のそれをでっち上げて急場をしのぎ、それから試製ナトやチリへと進化する方向性があると思う。

少なくともその時点で50mm前後の相対的に中途半端な口径ではなく、75mm以上の大口径へと選択を余儀なくされるだろう。

次の可能性はノモンハンの時点でSMK重戦車などに遭遇し、歯が立たない状態に陥るというものだ。

この場合も同様で60mm以上の装甲を撃破可能なそれを選択せざるを得ない。よって、マチルダⅠと同様に長砲身47/57mmを経ずして75/88mm級へと一足飛びに進化すると言えるだろう。特にこの場合、史実同様にいくらかの小競り合いを経ての停戦に合意した後に最初からチリ相当の戦車開発を決断する可能性が高いと考えられる。

チリ相当の場合、統制発動機の馬力では足りないことは明白であり、ディーゼルからガソリン駆動へと回帰することになるが、時代遅れになりつつあるハ9(BMW系液冷V型発動機)などをデチューンする形で搭載し馬力不足を解消すると考えられるが、中島の寿系空冷星型発動機などを採用する可能性は別途検証の余地があるだろう。

このチリ相当の場合、九五式重戦車の経験もあることで多少の加減をしつつ30~35トン程度を目処として設計を行うことになるだろうと推測はしている。いずれにしても20トン台のサイズでは適当な性能を目指すのは難しいだろう。

なぜ、20トン級を飛ばすのかと疑問が浮かぶかも知れない。ドイツのⅣ号戦車が25トン級であるのにそれを飛ばす理由が分からないと批判が出るかも知れない。

だが、よく考えて欲しい。30トン級であるチトの装甲とT-34の戦車砲の貫通性能をを以下に示しているからご覧じろ。

砲塔
 前面75mm
 側面・後面50mm
車体
 前面75mm
 側面25〜35mm
 後面50mm
 上面20mm

T-34 76.2mm L-11
 500m:60mm/1,000m:50mm AP
 500m:62mm/1,000m:56mm APHE

砲塔や車体の前面なら兎も角、側面など全く足りていないことが解るだろう。これが30トン戦車のそれであるが、25トン級のⅣ号戦車ですらほぼ同等であることを考えても不足していることが解るというモノ。

となれば、35トン級のチリはどうか?

砲塔
 前面75 mm
 側面35~50 mm
 後面50 mm
 上面20 mm
車体
 前面75 mm
 側面25~50 mm
 後面50 mm
 上面20 mm
 下面12 mm

これでギリギリ耐えうる装甲性能と言うことになる。

無論、英独ソの戦車に比べて洗練されているとは言い難いかも知れないが、少なくとも最低限度がこの程度であると言うことが解るだろう。

また、九五式重戦車が25トン級として既に開発済みであり、それを基礎とすることになるであろうと推測され、その性能の不十分さを解消するに当たっても最低でも30トン、実質35トンと発展させるであろう土壌は整っている。

また、その重量を支えるためにハ9系発動機の採用事例があることから、ここを研究基礎としていくであろうことは容易に想定出来る。

ただし、いずれにしても実戦投入が可能である時期を算定するとすれば、概ね43年後半から44年前半が関の山となりそうだと予測せざるを得ない。

しかし、幸いにして、ノモンハンの頃合であれば、諜報機関でお馴染みの岩畔豪雄大佐が戦車研究委員会の構成員であり、また軍務局軍事課課長の地位にあって機密費を用いることのできる立場にあった。

また戦車研究委員会の場でも、岩畔大佐は軽い戦車(※従来の快速戦車)を多量に揃える当時の整備方針に疑問を抱いており、より強力で装甲の厚い戦車が必要とする意見を持っていた。

こういった事情から用兵側の立場から重戦車/戦車駆逐車の要望がより高まったとしても不思議ではなく、実際に彼が超重戦車オイに関与していることからノモンハンにおいてソ連重戦車SMKが出現して恐慌状態に陥ったと仮定した場合、史実以上に重戦車構想が現実のものとして研究される可能性は十分にあると言わざるを得ない。

実際、技術本部など陸軍当局が乗り気ではない状態であっても、試製オイは41年4月製造開始、同7月に完成という目標で計画がスタートし、陸軍当局の非協力的体制でありながらも42年4月時点で走行実験に至っていることを考えると、43年後半と算定したそれよりも遙かに前倒し出来、42年年末までには35トン級であれば実戦投入出来るのではないかと思われる。

特にチリなどは技術的には40年時点程度の成熟した技術を基礎としていることから、前倒しが可能であると想定するのはそれほど無理があるものではないだろう。

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